流れ弾には気を付けて――銃社会アメリカの現実

明日からアメリカに行く。それは大きなことではないが、驚いたのはチケットを取ってからのこの数週間、在米日本大使館から毎日メールが送られてきて、その内容の多くがアメリカで起きている空港やレストランでの銃乱射事件に関する内容だったことである。

メールには「発砲事件に巻き込まれないように気を付けてください」とさらりと書いてあるが、これはかなり難しい。無差別に飛んでくる銃弾をかわせというのだろうか? 訓練を受けている警官でさえもできないことだというのに? 

銃乱射のニュースはよほど死傷者・負傷者が多くない限り日本までは届かない。しかし日本大使館のメールから推測するに、ニュースにならないレベルの無差別発砲事件ならほぼ毎日どこかの州で起きているということらしい。

空港で、レストランで、映画館で、大学の講堂で、小学校の教室で、公園で、バーで、教会で。人の集まるところなら銃があってもおかしくないということだろうか?

前回アメリカを訪れた時も、たった一カ月半の滞在で3件の大きな銃乱射事件のニュースが流れ、それらはコロラドの映画館とウィスコンシンの教会とマンハッタンの路上であった。

アメリカはもともと銃社会だが、それでも昨今ほど頻繁に起きることは過去にはない。これまでの銃にまつわる犯罪と最近の傾向が決定的に異なるのは、これまでは個人的な対人関係のトラブルが原因であることが多かったのに対して、今は顔も知らない通りすがりの人々に向けて銃口を向けることだ。逮捕された際に犯人が口にする際の動機も、「神の声が命令したから」など理解不可能なものがものがほとんどだ。

この手の銃犯罪は確実に増加傾向にあり、減少する兆しさえ見えない。

銃規制を求める市民の声もなかなか届かない。

銃規制をめぐっての議論で必ず持ち上がるのは、「悪いのは銃を扱う人間の方であって、銃そのものが悪いわけではない。なぜなら銃はたんなる道具であって、道具を扱う人間の方が責任があるからだ」というものだ。

確かにそうかもしれないが、ならば、最近の人間はどうなってしまったんだろう?

誰でもいいから殺したいと思っても、それを実行に移す人は世の中そう多くはない。多くはないが、確実にいることはいるわけで、そういう人が毎日どこかで発砲している現状が今のアメリカである。

そうなると、道具である銃よりも人間そのものを規制するべきではないか?人間の方が銃よりはるかに制御不能なのだから。

もちろん、そんなことは無理なので、だからこの問題は堂々巡りを永遠に繰り返すのである。

けれど、もはや悠長に堂々巡りがなどとも言っていられない。私は明日、飛行機に乗るのだ。着いた先で友人よりも先に銃が待っていないことを切に願う。

銃犯罪は日本人にとってもけっして他人事ではない。いくら日本に銃がないからと言って、これほど日米をまたがる仕事をしている人々の多い現実で、日本人とて行った先で銃乱射に巻き込まれない保証はないのだ。日本大使館がアドバイスしてくれるなら、私たちも発砲に巻き込まれない術を身に着けるべきかもしれない。流れ弾を避けるトレーニングをぜひとも習得したいものだ。

サポート頂いたお金はコラム執筆のための取材等に使わせて頂きます。ご支援のほどよろしくお願いいたします。