村本ファンが語る、村本大輔はアメリカで成功できるかについて

お笑い芸人、村本大輔さんは現在、ニューヨークにいる。9月6日にロンドンに行き、そこからフランス・イタリアなどヨーロッパの都市を巡り、9月末からはアメリカへ入り、11月の帰国までニューヨークでスタンドアップ・ショーに出演しながら、自らの芸を鍛えるのだという。

村本さんは来年には芸能活動の拠点をアメリカに移し、伝説のユダヤ系コメディアン、レニー・ブルースのように話術で全米を制覇するのが夢なのだと、彼のトークショーでよく語っている。だから私のようないちファンからすれば、彼のトークを日本で生で聴けるのは、あと一年足らずだと思うと、毎回がなんだかとても貴重な時間のような気がするのだ。

そこで村本さんの話術を日本語で楽しんできた者として、これからはアメリカで英語で聴衆の笑いを取るためには、何を話題にしたら受けるのか、私なりに考えてみることにした。もちろん、私はお笑い芸人ではないけれど、アメリカ人の関心を得ることに苦労した経験がある。私自身のそれらの経験が、村本さんの現在の苦労(今はニューヨークで苦戦しているらしい)と重なるように思うからだ。

留学中の論文執筆で感じたテーマ選びの難しさ

まず、アメリカで受けるためには、アメリカ人の物の考え方を学ぶことから始めないといけない。私が気づいたのはこれだった。私は大学はニューヨークで、大学院はサンフランシスコで通ったのだけれど、日本社会の問題を論文のテーマに取り上げると、なぜか毎回、プレゼンで受けが良かった。しかし内心では、せっかくアメリカに来たのだから、アメリカの社会問題を論じたいと思っていた。しかし人種差別やニューヨークのアフリカ系住民の間で行われている「女子割礼」の問題や、銃社会のことなどをテーマにすると、頑張ってリサーチするのになぜか成績が伸びない。教授からは「日本人も銃を持ち歩くの? 日本にも女子割礼のような儀式はあるの? そっちを知りたい」と言われてしまう。

どうやったら論文でAをもらえるか、あれこれ試した末にふと気づいたのは、「周りは私に日本的な要素を盛り込むことを期待しているのだな」ということだった。

単純に、私が日本人だから、何かアジア的な匂いのする話を聞きたい、読みたい。そういうことなのだろう。そう思って周りを改めて眺めてみると、なるほど他のクラスメート達も、皆そのようにしていることに気がついた。

インド系のクラスメートはインドでの性暴力の問題について書いていたし、ヒスパニックの友達は、ヒスパニック・コミュニティの歴史について語っていた。韓国人留学生は従軍慰安婦について語り、中国系の友達は中国系アメリカ人作家エイミー・タンについて綴っていたし、メキシコからの留学生はメキシコでの少数民族に対する差別の実態について発表していた。

彼らが心からそのテーマを追及したい、と思っていたかは定かではない。もしかしたら、心底それを書きたかったのかもしれないけれど、ただ少なくとも、好成績を得るための戦略として、それを選んでいる要素は確かにあったと思う。彼らは大学での成績というものに対して、日本の大学生ではちょっと考えられないほどシビアだったし、成績が悪いと退学になってしまう制度になっているのも、アメリカの大学の特徴だったからだ。

その後、私は「芸者から見る日本女性への偏見」について発表した。教授もクラスメートも、机から前のめりになるほど興味を示してくれて、自分でもちょっと引くほど受けた。今時ゲイシャかよ、と心の中で思った。芸者遊びもしたことがない私が、日本人というだけでそれをテーマにしているのだから、まさにお笑いである。いったい何なんだ、アメリカって、と思った。

それから立て続けに、「日本のフェミニスト団体について」や「日本のお弁当と母性の関係について」や「日本に於ける専業主婦の役割り」などについて書いた。「日本軍による韓国人の従軍慰安婦」についてプレゼンしたこともあったけれど、途中からなんだかどれも成績のためだけに書いているような気がしてきて、パソコンの前で何度も首を傾げた。アメリカに来てどうして、日本のことばかり書いているのだろうと悩んだ。結局、私が心から書きたい論文は何なのだろうと、自問自答している途中で卒業が来てしまった。そんな心残りの多い留学ではあったけれど、私がそこから学んだことは、自分の願望と周りからの期待にはズレがある、ということだった。それはその人の人種や国籍と切り離せないほど深い。私は自分がアジア人である限り、ずっとこの期待が当たり前のように続くのかと思うと、がっかりした。ましてや私にそんな期待をする彼らは、自身が私にそのような期待をしている自覚が、まったくないのだ。

同時に、私も自分以外の人種や国籍の他人に対して、同じような期待を無自覚にしているかもしれないと思うと、もはや誰のことも批判できなくなった。

村本さんの強烈な個性は、アメリカではまったくの没個性になる?

独演会での村本さんはよく、世界で巻き起こっている差別や貧困や紛争などについて語っている。紛争地帯シリアと、先進国でのテロのメディア報道の落差をテーマにした回は、圧巻で痺れた。同じテロ被害でも、イギリスやフランスなどの先進国でそれが起こった際には一大事として扱われるが、シリアなどテロが日常化している国で起こるテロのニュースは、報道の数が少ないか、さして珍しくないニュースとして扱われることが多く、それはシリアの深刻さを軽んじていることにならないか、と問いかけるのだ。

私はこういう話をしている時の村本さんが大好きだけれど、このようなテーマは、アメリカでは考えるのが当たり前のことでもある。アメリカでは、人々は驚くほどフランクに、日常的にこのような話をしている。まるで友達とランチを食べに行くような身軽さでイラクやアフガンについて語り、食後のデザートを頬張るように大きな口を開けてトランプ批判をする。(実際に彼らはランチをしながら政治や戦争について喋り合っているのだから)こうしたアメリカ社会で、今、村本さんが新宿ルミネの独演会で語っていることを語ったとしたら、彼らからすれば、あまりにも当たり前のことを聞かされているだけにすぎないだろう。

LGBTQについても、村本さんはよく笑いを通して主張されていて、日本のステージでは深く共鳴するお客さんも多いけれど、これなどはまさにアメリカでは聞き飽きるほどに、みんなが話していることなのだ。「セクシュアリティで人を差別するなんて、ばかげている。ゲイの人を受け入れよう、と言っている人の無意識の傲慢さを嗤う」独演会の中での村本さんのこれらの主張は、アメリカでは一般の人が友達同士で普通に喋っている話題だ。それを日本から来たコメディアンに改めて言われても、そこに何ら新鮮味は感じられないのではないだろうか?

戦争もテロも難民問題も、人種や国籍による差別も、LGBTQへの考察も、村本さんの独演会を特徴づけるテーマはほとんど、アメリカではありきたりなテーマだ。言い換えれば、これらのテーマは、あまりにもグローバルなテーマなだけに、世界ではいたって標準的ということだ。アメリカに限らず、世界中の心ある人たち、あるいは意識の高い人たち(良くも悪くも)は、たいてい戦争や貧困や民族紛争や、格差や差別などの話題を、普段から考えたり話したりしている。そしてハリウッド・スターもミュージカル俳優もアーティストも、こぞって世界の問題に対して声をあげている。そんな彼らが、ニッポンでは芸能人が政治的な発言をすることがタブーだと聞かされたら、意味が分からないと驚いた顔をするだろう。そう考えると、日本がむしろ特殊な国なのかもしれない。だからその特殊な日本で異彩を放っていても、世界では没個性になってしまうかもしれないと思うと、いちファンとしては悲しい。

村本大輔からDaisuke Muramotoになった時、その面白さは消えてしまうのだろうか? 

村本さんがステージの上でアメリカ進出の夢を語った日から、私はずっとそのことについて考えている。

そのようなわけで、私は村本さんの独演会の帰り道に、大学時代の論文のことをちょうちょく思い出すようになった。英語の論文の中に日本的な要素をどうやったらうまく取り込めるのか、頭を悩ませていた当時の自分を振り返ってみると、私は日本のことばかり書いてはいたけれど、そこにアメリカとの接点を創りだすことに躍起になっていたように思う。芸者について書いた時も、ただ芸者について説明するのではなく、アメリカの白人男性たちが有色人種、殊にアジアの女性たちに抱くオリエンタリズムと絡めて論じた。そこが先生やクラスメートから興味を惹かれた理由かもしれない。日本のフェミニズム運動の歴史について書いた時も、それぞれの時代の日本人たちがアメリカのフェミニストたちから、いかに影響を受けてきたかを中心に論じた。こうした接点を創ることで、アメリカ人の先生たちが、遠い日本をとたんに身近に感じてくれたのかもしれない。

グローバルなテーマにおいて、ニッポンを前面に押し出す

はたしてこれからの時代に、多くの人々が、国境を越えて日本を身近に感じてくれるテーマは何なのだろう?

それは原発なのではないか、と私は思う。原発は村本さんがステージで頻繁に取り上げているテーマでもある。アメリカにもフランスにも原発はあるし、原発を廃止したドイツは、その決断をするまでにいくつもの困難を克服してきた。ウクライナという国をよく知らない人はいても、チェルノブイリと聞くと、瞬時に何らかの共通したイメージが私たちの脳裏に浮かぶはずだ。そして福島も、Fukushimaになったとたんに、日本に興味のない人の頭にもある一定のイメージが喚起されるだろう。

余談だが、カリフォルニア州では今月から、地球環境に配慮して、プラスチックのストローをレストランでお客さんに配るのを廃止した。原発は環境問題と密接に繋がっているので、こうしたストローなど、身近なことに絡めて原発の話題を始めていけば、エコに関心がある聴衆を国境を越えて取り込める可能性もあるだろう。

いちファンとして、私は村本さんにはフクシマのことをアメリカで語ってほしいと思っている。なぜなら私は、何年たっても忘れられない素晴らしいスピーチを覚えているからだ。それは、東京が2020年のオリンピック開催地を巡って、他都市と競い合っていた当時の安倍首相のスピーチで、首相はIOC関係者の前で堂々と流暢な英語で、「フクシマの原発はアンダー・コントロール」だと言ったのだった。

当時はまだ多くの被災者が仮設住宅に暮らしていたし、テレビが映す映像からは、素人目に見ても汚染水が海に流れ出ているように思えた。そんな状況で首相が世界に向けてはっきりと「It's all under control 」と断言し、オリンピックを勝ち取ったのだ。これほど強烈なお笑いを、私はかつて知らない。その後、フクシマ復興に必要な建設業関係の人員が、オリンピックの施設建設のために持っていかれ、日本を活気づけるはずのオリンピックが、実際はそのせいで復興が遅れてしまっているという現実も、壮大なお笑いとしか思えない。どんなに才能のある芸人でも、これほど面白いネタを作れはしないだろう。

もしこれをアメリカのステージでネタにして話したら、爆笑は取れないだろうけれど(もちろん上記の私の文章はすべて皮肉です)聴衆は深く共感するような気がする。アメリカも2005年にハリケーン・カトリーナの被害に遭った。レスキューに向かうはずの軍人が、イラク戦争に駆り出されていて人員不足に陥っていたために、被災者の救助に回れずに多くの人が犠牲になった。当時はブッシュ政権で、それまでイラク戦争を支持していた人までが、カトリーナのこの現状によって、考えを変えるようになった。

当時、人気だったMSNBCのニュース・キャスターが、彼が司会のある報道番組で、15分にもわたって大統領の辞任を求めるコメントを言い続け、局を解雇されるという出来事があったのもこの頃だった。

アメリカでは、ハリケーン・カトリーナをもう過去のことだと思う人もいるけれど、昨日のことのように思う人もとても多い。日本でもそれは同じで、311を昔のことだと思う人と同じくらい、あの日を昨日のことのように感じる人がいるだろう。災害というのは、グローバルなテーマでありながら、日本特有の状況も表現することができる、国境を越えて多くの人が共感できるテーマだろうと思う。

言葉の壁を乗り越える

そして次に、村本さんがチャレンジしないといけないのは、やはり英語だろう。どんな言葉もそうだけれど、英語はとても奥が深い言語である。たとえば、Something ひとつでも、いくつもの意味合いを表現できる。少ない言葉数で豊富な含蓄をもたせることができて、シンプルな言葉遣いに奥深い感情を表現できるのが、英語である。

村上春樹さんは、英語で文芸評論や日本文学解説などは多く書かれているけれど、英語で小説を書くことだけはできないと語っている。英語はそれほど奥が深く、批評文までは書けても、小説に欠かせない読者の感情に訴えかける絶妙な言い回しや描写を英語でつくるのは、「世界のハルキ」ほどの小説家でも難しい。

それはコメディでも同じことで、英語の持つ広さと深さを最大限に活かさないと、お客さんを惹きつける芸は産み出せない。ただ、スタンダップ・コメディの場合は、目でじっくり読む小説とは違って、お客さんが耳で聞いてその場で理解できる範囲の言葉に留まるわけだから、小説ほど無限大の英語力は必要としないかもしれないけれど、それでも、ネイティブの言葉の世界にノン・ネイティブの村本さんが飛び込もうとしているわけだから、その勇気はすごいと思う。

アメリカでは大爆笑よりも、しみじみ感じる芸がいい

村本さんは、自身のラジオでよく、爆笑を取りたいと語っている。けれど私は、アメリカでは爆笑を狙うよりも、お客さんを静かにしみじみと考えさせるトークをした方がいいと思っている(あくまで個人的な見解です)なぜなら、ノン・ネイティヴの人間が、ネイティブ並みに英語をマスターするまでにはある程度の時間が必要で、そんな上達までの長い時間を、爆笑を取るためにあがくよりも、多少たどたどしい英語でも、自分がどんな人物であり、ステージで何を伝えたくてアメリカまで来たのかを、ゆっくり語った方が、お客さんの心に気持ちが届くと思うからだ。

そもそも笑いとは何なのだろう? リズムに合わせて裸になって踊っても爆笑は取れるし、ギターを弾きながら、聞き覚えのある同じフレーズを繰り返しても爆笑は取れる。マシュマロを遠くに放り投げて、口でキャッチしても大爆笑は取れる。そうした体を使った芸は、英語の高い壁をやすやすと越えていかれるから、ノン・ネイティブの芸人が、アメリカで受けを取るには名案だし、これらを考え出した芸人さんたちは賢いと思う。

しかし村本さんは、言葉で笑いを取りたいと思っているのだ。

私は数々のお笑いを観てきたいち聴衆として、げらげら笑うことだけが面白いお笑いとは限らない、心に残る笑いがあることが、本当に面白いお笑いだと思っている。本当に面白いお笑いは、たとえ会場でお客さんが声をあげて笑っていなかったとしても、心の中では面白いと思っている。会場を出た後に、お客さんひとりひとりが、今夜のステージを振り返りながら、自分なりの感想を持ち、それを友人と語り合ったりできる。そして今夜、心の中で笑ったことを、来週も、来月も、来年も覚えていられる。私だけの理想かもしれないけれど、それが真に面白いお笑いだと思う。

もしも、はるばる日本から来たコメディアンが、そんな心に残るお笑いを、流暢でなくても伝えようとする強い意志が伝わる英語で披露したら、アメリカのお客さんの心にきっと、ずっと先まで響き続けるだろう。

そんなDaisuke Muramotoが観られる日が待ち遠しい。


サポート頂いたお金はコラム執筆のための取材等に使わせて頂きます。ご支援のほどよろしくお願いいたします。