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午後2時



僕は未だベッドから身体を起こせずにいる。
ただ呆然と、ほんの少し開いたカーテンの隙間を見つめるばかりだ。そこから射し込む光で、今日は天気が良いことが分かった。

学校を終えた子供達が傍の道を走っていく音。自転車の車輪が軋む音。立ち話に興じる主婦達の笑い声。
僕自身はというと、どうせ野垂れ死ぬだけの、駄作の中に生きている。

僕も少し前までは、一般の彼等と同じ、一般の自分であった。笑って、泣いて、怒って…。感情の起伏を存分に使い、時間を浪費する事に意義があると信じてやまなかった。
いつからこうなってしまったのだろう。
物事が思うように進まなくなり、時間が遅くなった。自分の心の隙間が無くなって、感情を表現する事も、言葉を発する事も恐れた。
聞こえてくるもの、見えるもの全てが自分へ向けられた銃口に思えて、僕は蹲った。

「みんな消えてくれ」

そうしていつしか僕の周りには、人が居なくなった。
僕が望んだ通りの孤独が完成した。

ようやく布団から顔を出す。
冷たくも柔らかい春の空気が、掃き溜めのような僕の部屋にも滑り込んで来ているようで、甘酸っぱい香りに包まれた。
光に目を細めながら、僕は窓際に立って、丁寧に並べられたうちの一本を咥えた。火を付けると、喉に乾いた煙が流れ込む。
途端、胸の内から何かが込み上げてきて、僕は僕の目から涙が落ちた事に気付いた。

つらかった。
苦しかった。
誰かに助けて欲しかった。
誰かの「大丈夫」が欲しかった。
ただ、それだけだった。

堰を切ったように流れ続ける涙に、僕は安堵した。ようやく自分の感情を理解できたからだ。
僕はどうして欲しかったのか、どうなりたいのか。ようやく、僕の身体が教えてくれたからだ。

やっと僕は、僕を抱き締めてやれる。

誰かに愛されたいその気持ちは、誰かに愛された温みを知っているからで、その温みは与えた事があるから感じる事が出来るのだ。

僕は知っている。愛された記憶を。
僕は知っている。愛した記憶を。

灰皿に立てかけられた煙草は灰に侵食されてもう殆ど吸えやしなかった。
涙は、もう止まった。

一つ息を大きく吸って、僕は口角を上げた。

大丈夫。
大丈夫。
大丈夫。

今日は天気が良い。
春を知らせる風が、僕が過ごしてきた曇天の日々は、無駄ではなかったと笑った。

大丈夫。
大丈夫。
大丈夫。

明日は、もうすぐそこに。

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