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暗夜に手向け / 創作

日の入りとともに表が騒がしくなり始めた。既に閉じられているカーテンを改めてレールギリギリまで閉め直すと同時に、テレビの音量を上げる。こうすると喧騒も幾らか薄まるような気がする。
毎年この時期になると、表の幹線道路はどこもかしこも車でいっぱいになる。特にクリスマスから年末年始、足がけ2週間に及ぶ期間は酷いもので、数ブロック先に横並びになった国道の激しい往来を避ければこの道こそ空いているのではないか、と同じことを考えたもの同士でたちまち片側二車線の道路がごった返すのだった。然しながらこの県道を抜けても、構造的には直ぐに国道に踵を返すような造りになっているから、渋滞解消のために増設された広域幹線道路もまるで機能せず、寧ろ渋滞の数を増やすだけの存在になっている。
3人分の遺影を眺めながら、夜食後のカプセルを計4錠、渋茶と共に呑み込む。父親は私が35になったばかりの春に、さらに母親は同年の冬に他界した。母親の死は看取ったものの、父親は散歩に行ったままそれっきり帰ってこなかった、というところで記憶が止まっている。父親が他界してから母親は抜け殻同然のようだった。夕刻を過ぎても外光を頼りに、明かりを灯さず居間に縮こまっていたのをよく覚えている。おしどり夫婦というと聞こえはいいが、親をほぼ同時に失ったこちらの苦労は計り知れないものだった。

38歳の時、当時務めていた板金会社の社長の計らいで、形ばかりの見合い結婚をする。子どもも欲しくなかった私にとって結婚というものは必要ないように感じていたが、妻が家に居ると広い家に私だけが住んでいるという状況がどれほど味気ないものだったのかをよく理解できるような気がしたものである。結婚という選択が果たして正しかったのかということはさておいて、炊事洗濯を苦手として常日頃行きずりの生活を送っていたような私にとって、妻という存在も必要不可欠なものであったに違いない。

区画整理に伴って、我が家にも曳家の提案が持ち掛けられたのも、今から十年前に遡る。今ある家は、曾祖父が残してくれた莫大な遺産を元手にして両親が建てたものだった。生前父親は庭先にある畑をせっせと耕していた。地元最大手の証券会社を定年退職した彼の唯一の楽しみが土いじりで、丁寧に整地された畑には作物がぎっしりと植え込まれていたことをよく覚えている。父親が亡くなった途端、どこからか運ばれてきたアワダチソウやらタンポポで埋め尽くされた畑も、きっと私が死ぬまで耕すことはないだろうということは分かっていた。そうは言っても、この場所から1ミリでも家が動いた日には父親の面影も失ってしまうような気がして、妻の忠言も聞かずに私は今の生活を変えないことを選んだのである。結果として畑部分の土地は僅かな金銭に代わり、自宅の前を掠めるようにして、幹線道路が造られた。
年の瀬になると毎年、表は騒がしくなる。その度に私は、役所に苦情の電話を入れた。妻から言われなくとも、これをもって現状が変わらないことや、役所がそこまでの権限などないということは頭にあったものの、どうにも自身の欠落感に折り合いをつけることが出来ないのだった。閑静だった頃の田地に思いを馳せては、受話器を掴みつつ、夜毎怒鳴って過ごした。

たった今窓の外を複数台のバイクが轟音を上げながら走り去っていくのを聞くなり、思わず受話器に手をかける。もう私を止めてくれるものはどこにも居ない。妻も今年の初めに亡くなってしまっている。少しばかり思いを巡らしてから、打ちかけた番号をそのままに受話器を置く。しばらく続くざわめきが止むまで、テレビの音量を上げたまま時を過ごす。近頃はこの方法でやってのけている。

見たくもないバラエティ番組を流し見していると、ワイプの中に収まっていた女優が大画面に映し出されて、クリスマスチキンを紹介し始めた。明らかにバツが悪い気持ちでチャンネルを切り替える。
13の頃から鳥が食べられなくなった。特にアレルギーがある訳でもなければ、菜食主義を持ち合わせている訳でもないから、厳密に言えば食べられないことはない。近頃の若い者が挙って口にするような 「食べられない」の性質とはまるで異なる理由が存在している。おぞましい記憶の煮こごりは、数十年という月日が流れても形ひとつ、顔色ひとつ変えずにいる。
種を問わず、2枚の翼で羽ばたきを見せる生き物の存在を目に焼くと、昔のことを思い出してとてもじゃないが、見ていられなかった。

穀物がぎっしりと詰まった袋から、およそボールで2杯分の餌を陶製の餌皿に流し込む頃には、校門から生徒玄関の方へ、ちらほらと生徒が駆けていくのが見えた。昨夕に入れ替えた水入れの容器の中で、一匹のミミズが沈んで絶命している。水源を求めて落水することはよくあることなのだろうか、5日に一度くらいのペースで、ふやけた死骸を小屋の外へ遺棄する機会があった。ミミズは腐敗が進むと哺乳類が死んだ時と似たような香りがした。幾ら金網作りの柵に囲まれているとは言え、このうち入口を除いた三方向はプラスチックの仕切り板で閉ざされている為、珍妙な匂いが小屋全体を包む。
餌皿にさらさらと穀物が流し込まれる音を聞いて近付いて来た一羽のレグホンはそんなことすら気にも留めていない様子で、無心で餌を啄み始めた。
学級委員に着任してからすぐ、道徳教育の一貫として一羽のレグホンを校内にある小屋の中で飼うことになった。もともと、この場所はウサギ小屋として機能していたという話を、人伝いに聞いたことがある。四隅にはだいぶ古くなったウサギの糞が散乱していることから、在りし日の記憶を朧気ながらに辿ることが出来る。給餌係になっていた少年達が早くにこの仕事を放棄してしまった結果、学級委員という肩書きを持っている私だけが一羽のニワトリに寄り添う形になった。学級内のほぼ全員によって迎え入れることが決定したとしても、私を除いた30数名の学生は徹底して種族の異なる生物に対する冷たさを併せ持っていた。

それはほんの出来心だった、正直そう表現する他ない。餌を与え続ける2ヶ月の間に随分と立派な体格になり、少しずつ羽ばたきの練習をし始めたその背中を眺めながら「こいつは自由の身になった方が良いんだ」とごく身勝手な解釈をした。こうして住処を飛び立った一羽のニワトリは、白金のように照り輝いた校舎を掠めて、新興住宅街の方向へと消えていくところまでを鮮明に記憶している。単に餌を貰うための生活よりも、能動極まった生活を送る方が、奴のためになるに違いがなかった。

家主の不在に気が付き、生徒やら職員やらが騒ぎ始めたのは放課後になってからのことだった。同時に、生徒の保護者から学校に向けて連絡が入ったのもこの時だったという。学校から僅か3キロほど離れた農道の脇で、乗用車に轢かれて絶命しているところを発見された。その死が判明しても、誰かが誰かを疑うような時間は訪れなかった。私が考えるよりはるかに、皆どうでもいいと感じていたのかもしれない。

それから一切、鳥を食べることは出来なくなってしまった。私が世話をしなければもっと早くに亡くなっていたのだから、最も負い目を感じるべきなのは私を除いた人々なのであろうが、死に直結する線引きをしたのは紛れもない私自身であるとなると、どうにか背負っていかなければならないものであると感じている。

どうにも落ち着かない夜もある。くだらないバラエティ番組でもかき消せない夜があることを知って、テレビの電源を切った。久方ぶりに本を読むことにする。相変わらず、活字は上手く追えない。10ページばかり読み進めるのも精一杯で、2ページ読む毎に部屋の奥の方をじーっと見つめた。余暇があれば黙々と紙を捲っていた妻のことを思い出す。妻が挟んだ栞は何としても取れることがないように、クリップを使って丁重に留められている。どんな思いで本を手に取り、またどんな思いで読み進めていたのか、私は知りたかった。少しだけ書物に没入すると、途端に外の音は耳を障らなくなった。曳家の話を始めに受け入れたのは妻で、それも私は頑なに引き受けなかった。ただ正直に言ってしまえば、私も騒々しい生活には疲れ果てていた。上つ方に啖呵を切り、半ば吐き捨てるように残留を決めた身だ。道路が出来てからやっぱりすみませんでした、では済まなかった。ページを指先でしゃくる度に、この家ではなく、妻の匂いがする。もしかするとこれほどまでの読書量は、私に対するメッセージであったのかもしれない。

たった3、4ページ分の活字をじっくりと読み進めていると、外が何となく白やんでいることに気が付いた。妻が読み進めた場所まではまだ暫く、時間がかかりそうである。亡くなった者のことをいつまでも気にかけていると、魂は成仏できない、と聞くから、妻の書庫から本を取り出すのもこの一冊のみと決めている。窓辺に置かれた観葉植物に、たまには。そう思いながら、申し訳程度の水をやる。長らく取っておいた父母の私物は、必要最低限のものだけを残して、今朝方やっと捨てる決心が付いた。朝ぼらけの淡くぬるい光が、私の思いを突き動かす。この勢いのまま、鳥肉でも買って食べようか。



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