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僕が恋愛をコンテンツにしない理由

彼氏が最近冷たい。彼女と喧嘩した。男女の色恋の話はいつでも盛り上がるものです。マクドナルドやスターバックスに行けば、隣のテーブルからそんな話が聞こえてくることもあります。この間、大学生の男の子が、向かいに座った女性の友達に、気になることの遊ぶ機会をつくってくれないか。と話しているところに出会いました。まさにそんな具合にあちらこちらで今日も恋バナで盛り上がっている人がいるのではないでしょうか。

もちろん僕も人並みに恋愛をします。周りに恋愛の相談することもあります。でも、なんかはわかりませんがこういう文章や、自分が作るコンテンツに、恋愛を持ち出すことはほぼほぼありません。それがなんでなんだろうかと、今日は考えていました。
今、読んでくれているあなたは、恋愛について文字や絵、写真、音楽などで表現したことがありますか。

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僕がいわゆる恋というものについて、文章や、表現の題材にしない理由に、どうやら輪郭線を描くのが怖いというものがありそうです。
僕は僕のことがあまりわかっていないので、本当にそういうことなのかはわかりません。

少し話はそれますが、表現をするということと、ものに名前を与えるということは似ているように思います。人間という生き物は、様々な現象やコトやモノ、生物に言葉という記号を使って名前をつけてきました。
そうすることで相手と意思疎通ができるようになりました。(というイメージがあります)
つまり、名前を与えるということは、誰か他人と、現象、コト、モノ、生物などの対象の認識を揃える行為だと言えます。通づるのはこの部分です。
表現は、自分の中にある対象の認識を、他人が知ることができる、形や音、言葉などに変換する行為です。

話を戻すと。
僕が恋について言葉にしてしまったり、表現してしまったりすることは、すなわち誰かに認識されてしまうということになります。
どうやら僕はそれがイヤみたいです。
全て起きたことを、鮮明に漏れなく、素敵な形で言葉にできるなら、そこまで怖くなかったでしょう。でも、僕の乏しい表現力では、なんだかまるで違うものになってしまう気がするのかもしれません。
自分で描いた輪郭線で浮かび上がった形が、今まで思っていたものと違って見えてしまうのが怖いのかもしれません。

そう考えるとなんだか不安になってきます。

何でもかんでも言葉にして輪郭を与えていくと、それ以外のことを忘れてしまいそうです。少し寂しかった気持ちとか、暖かかった気持ちとか、色のイメージとか、なんとなく覚えているくらいがちょうどいいこともたくさんありそうだなと思っている次第です。これも、1年後、3年後、5年後、変わっていく気持ちなのかもしれませんが、今はこのなんとなくを大切にしまっておこうと思います。


読んでくれてありがとうございました。また明日ここで。

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