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【リラクゼーション・短編小説】ぐるぐる回る世界とささやかな日常に祈りを

 コロナ禍での出産だった。

 男の子でも、女の子でも『空』と名付けようと決めていた。

 世界へと繋がっている、君の名を呼びながら私は産声を聞いた。



 2022年2月24日ロシアがウクライナに侵攻した。

 令和のこの時代に、戦争が起こるんだ──。

 寝不足でぼんやりとした頭で、私──飯岡瑠花──はワイドショーを眺めていた。

 侵攻を開始して数日経った今、報道が真実なのかフェイクなのか、大衆と同様に私にも解りかねた。

 ミサイルが落とされる。

「怖いね」と、私は胸の中でまだ一歳にも満たない空を抱きしめた。


 夫は渋谷まで仕事に行っている。スポーツジムの店員には、リモートワークなんて絵空事だった。

 「何もわざわざ東京に行かなくてもいいんじゃないの」

 私たちが住んでいるのは千葉の郊外にある賃貸マンションだった。渋谷までは片道一時間とちょっとはかかる。

 「仕方ないだろう。俺だけ在宅ってわけにはいかないよ」

 夫の飯岡拓実は困ったような顔をする。周りの顔色ばかり窺って生きているんじゃないかと思う。異動したいって言えばいいだけじゃん。私は出かかった言葉を飲み込んだ。


 『ドンドンッ』

 鈍い音が部屋中に響いた。隣人が壁を叩いているのだ。

 うるさいですよ、と。

 ハッと気付く。空が泣いていた。昼寝から目覚めた、我が子の機嫌は悪い。

 うるさいですよ。


 抱っこひもを肩にかけ、我が子を抱いて外へ出た。


 こんなにも頻繁に公園へ通う人生を、いったいいつ想像しただろうか。

 徒歩で行ける生活圏内に三つある公園のうち、一番遠い、恐竜の形(サウロロフスというらしい)をしたすべり台が人気の公園を目的地にして歩く。悶々としたときは歩きたい。考えがまとまったりするわけじゃないけれど。じっとやり過ごすより気が紛れるので幾分かマシだ。

 私の両親は鴨川シーワールドで有名な、千葉県鴨川市に住んでいる。同じ千葉県内にいるけど、うちまで来るのに二時間以上はかかる。田舎のほうがご近所さんの眼があってコロナに対して敏感だと言う。私はその情報を真に受けて、出産時の二週間を除くと実家には帰っていない。母とは週に数回テレビ電話を繋ぐが、母世代のアドバイスってなんだかズレている。友達に聞いたり、ネットでググっちゃったほうが速いかなって、最近は思う。父は、孫にでれでれとした顔を見せるばかりだ。強面で漁の仕事と酒以外興味がない父が、こんなに笑顔になるのだから、世の中の赤ちゃんは存在しているだけで誰かを救っている。

 夫の、拓実側の両親は山形県に住んでいるので、ほとんど孫に会わすことが出来ていない。今年こそはと思った、一月上旬。サービス業らしく年始からずらして連休を取る予定だった拓実の職場をクラスターが襲った。代わりがいないからと連勤へシフトして多忙を極めた彼、その後の代休もたまった疲れを休めることを優先し、結局タイミングは見つからずじまいだった。

 ワンオペ育児って、本当に孤独なんだなと思った。

 日中は、こどもと二人だった。

 空が喋れるようになれば、また違ったのかもしれない。

 Eテレとワイドショーばかりを見る自分を嘘みたいに感じる。

 元々、百貨店で催事企画のコーディネートする仕事をしていた。今は育児休暇中、ということになる。社会的には。だけど、復帰できるのだろうか。保育園は? 送りに間に合うように勤務できる? それより、戻った時に、かつての居場所がまだそこにあるの?

 意味のない問答で疲弊して、心はより擦り切れていた。

 「子育てだって、立派な仕事じゃないか」

 拓実は言う。私を励ますつもりで言ったのだろうけど逆効果だ。

 子育ては仕事じゃない。


 サウロロフス公園に到着すると、ちらほらと子連れが来ていて見知った顔もいた。

 「瑠花さん、やっほー」

 ベンチに腰掛けている田村友里恵が笑顔で手を振ってきた。隣には二歳になる長男の響くんも一緒だった。

 「何だか久しぶりねえ」

 友里恵さんと前回会ったのは、だいたい一週間前くらいだと思う。

 「いやねえ何だか最近物騒で」

 「本当に、まったく」

 私は友里恵さんに同意すると、彼女の隣に腰掛けた。抱っこひもの揺れが心地よいのか空はうとうととまどろんでいる。響くんはすべり台へと駆けていった。ついこないだまで一人で滑れなかったと思うけど、こどもの成長って早い。特に我が子じゃない場合は会う度に目まぐるしく変わっている気がする。当然なんだけど。

 「はあっ」

 私の深い溜息に友里恵さんが笑う。

 「瑠花さん疲れてるわねえ」

 おそらく私は友里恵さんより大分年下なんだろうけど(ついつい年齢の話は聞きそびれてしまってる。こどもの年齢のほうが共通の話題になりやすいし)さん付けで呼んでくれることを、私はとても嬉しく思うし歳を重ねた時、友里恵さんみたいな態度でありたいものだと心から思う。

 「色々疲れますよね」

 友里恵さんなら同意してくれると思って、言った。甘えたのだ。

 「疲れても人生は続くわよね」

 だから期待した応えと違うな、って思ってしまった。

 コロナとか戦争とか、やれフェイクニュースとか、やれ円安、やれオンライン、やれ育児ノイローゼ、こどもにもマスク、消毒消毒。疲れるのは私だけ。みんな平気なの?

 「せっかく綺麗な顔なんだから、笑いましょう瑠花さん」

 彼女の言葉には悪気はなくて素直に受け入れられる。

 「友里恵さんは、疲れませんか?」

 私はまだ、甘えている。年長者に対して、自分の事を綺麗だとほめてくれる彼女に対して。

 「やあねえ」

 友里恵さんは笑って言う。

 「疲れるに決まってるじゃない。歳を重ねてより一層、疲れは避けられないけど。それを苦しいかと思うのは自分次第だってことに気付いたわ」

 そんな、そんな境地に至れる日が来るのだろうか。私は、私と友里恵さんの違いに軽く絶望した。だって、私は疲れたくもないから。これも、甘えなんだろうか。こどもが生まれてから私は私の弱さをどんどん知っていく。

 じゃあ特別に、と友里恵さんはポケットから紙切れを取り出して私に渡す。

 『特別優待半額 全身ボディトリートメントでスッキリ爽快リラックス』

 裏面を見ると、最寄り駅近くのSCの中に入っているリラクゼーションサロンだった。

 「たまには息抜きも大事よ」

 はぁ、私は渋々クーポンを受け取りズボンのポケットに入れた。


 「今日は空、どんな感じだった」

 夕食後、TVを見ながら拓実が聞いてくる。膝の上に空を乗せてゆらゆらと遊んでいるのを、洗いものをしながら私は見ている。

 「どんな感じって、普通だよ」

 「普通ってことはないだろう」

 「普通だよ」

 「どんな今日も、どれも同じじゃないんだからさ」

 拓実は晩酌のアルコールが入っているせいか、絡みがめんどくさかった。

 夫との話もめんどくさく感じるなんて、やっぱり余程疲れているんだろうか。

 「あーそういえば、友里恵さんからクーポン貰った。駅前のリラクゼーションの。疲れてるから行って来たらって、半額だって」

 「へえ、半額。行って来たら」

 疲れているから、のところに反応しないところがまた嫌になる。洗いもの、しろや。

 「じゃあ次拓実が休みの時行ってこようかな、いつだっけ」

 「あさってかな」

 「了解」


 二日後、私は拓実に空を預けて駅前のSCへ訪れた。午前中の予約が取れたから、施術を受けてランチでも食べて帰ろうかなと思っている。

 こども服売り場を覗いたり、可愛い食器を買ってみたり。ふと周りをみると、自分と似たような奥さん方がいたり、リタイアしたであろう老夫婦がいたり、日常感が溢れていた。家電売り場で売られている最新のTVには、相変わらずネガティブなニュースが流れているというのに。憂鬱な気分になって、少し早めにサロンの前に着いてしまった。

 「ご予約のかたですか?」

 ハキハキとした喋り方のお姉さんに声を掛けられる。お姉さんといっても私と歳は変わらないくらいか。

 「ええ、予約していた飯岡です」

 「お待ちしておりました、どうぞ! おかけください」

 受付のソファへと案内された私は促されるままカルテを記入していく。氏名、年齢、職業は育児休暇中、でいいか。

 お疲れの場所はどこですか、という質問に、わかんないけど全部な気がすると思った。

 店内には心地よいヒーリングミュージックが流れていて、フローラルなアロマの香りが漂っていた。この香り、何だっけ。好きな香りだ。

 「ジャスミンですよ」

 私が鼻をヒクヒクさせていたのを見たのか、セラピストのお姉さんが教えてくれた。

 「リラックスできますよね。よろしければ今日のトリートメントはジャスミンのアロマで行いましょうか」

 嬉しい提案だった。私は頭を縦に振る。

 「では本日担当させて頂く前田ハロです。ハローのハロ。よろしくお願いいたします」

 前田ハロさん。可愛い名前。

 私は紙ショーツ一枚になって、ブランケットが敷かれたベッドにうつ伏せで寝る。

 「もう寝ちゃいそうですけど」

 ハロさんが笑う。

 「寝ちゃってください、全然良いですよ」

 うつ伏せになったから顔はわからないけど、彼女の手が私に触れていく。

 「全身、疲れてますね、本当に」

 一通りを一度巡った後、彼女が言った。

 その瞬間、なぜだかわからない。初対面の人なのに、わかりっこないって思っていたのに、理解してもらえたって思った。実感として、私は疲れていることを認めてもらえた気がした。

 ごり、ごりりりっ。

 筋肉が押されてはがされていく。

 「身体がかたまると、頭もかたまって、心もかたまるんです」

 ハロさんの手は肩、首、肩甲骨と流れ、背中から腰へと移った。

 「触ってるだけでわかるんですか」

 私は聞く。

 「言葉にしなくても、わかることっていっぱいあるんですよ」

 そうなんだ。ハロさんは続ける。

 「お子様と喋らなくても通じ合える瞬間って、ありません?」

 「ある、かも。あるかもしれません」

 空が笑った時、お腹がすいた時、眠たい時。私が不機嫌な時、忙しい時、笑った時。私と空は分かり合っている気がするし、その瞬間を分かち合っている気がした。

 「疲れても、人生は続く、んだとしたら。どうしたら、いいんでしょうか」

 「簡単です。自分が心地よいと思うことをし続けたらいいんですよ」

 ハロさんの手技に全身が解されていく。

 「でも、それって、逃げて、ないですかね」

 「逃げることは、きっと悪いことじゃないですよ」

 「そう、なん、でしょうか──」


 いつの間にか、眠ってしまっていたようだ。

 全身に気持ちよさが残っていて、疲れが取れた気がした。

 起き上がると、頭も、身体も軽い。

 ハロさんはにこにことしている。

 「お疲れさまでした」

 「何か、もっと早く来ればよかったです」

 私が正直に言うと、ハロさんは、またいつでも来て良いですよと言ってくれた。

 「飯岡さん、これは私の秘密なんですけどね」

 急にシリアスな顔になってハロさんは言う。

 「何でしょう」

 私も息をのむ。

 「前田ハロつて、略すとマハロなんですよ」

 「マハロ・・?」

 「ハワイの言葉でありがとうって意味です」

 「ああ!」

 「自分に向けて、家族や友人に向けて、社会や今この瞬間に向けて。ありがとうが言える時はみんな大丈夫ですから」

 みんな大丈夫か。私はその言葉で安心する。

 「また来ますねハロさん、マハロ」

 恥ずかしくてマハロ、は小さな声になってしまったけど、大丈夫。

 帰ったら拓実にも空にもありがとうって言おう。

 クーポンもくれた友里恵さんにも。

 マハロ。

 ありがとうの輪が少しでも繋がっていくことが、世界と日常に対する私のささやかな祈りだ。

#一呼吸をおいて


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