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故郷の光と陰・・・幼友達の想い出と現実との落差

 転勤族であり、金魚の糞として、二、三年に1回の割合で転校を余儀なくされた時代。当然の如く、生まれ育った故郷から何十年も離れてしまい、幼友達との接点も、遠い昔の想い出となってしまった。

 幼い頃の想い出は、何年、何十年経っても、色褪せるものではない。強烈に刻まれた記憶を辿り、大人になって故郷へ足を運び入れると、記憶の箱から次から次へと、面白おかしな幼友達との遣り取りやその光景なりが跳び出してくる。

 熊本地震(2016年4月)以来、取材のために頓に故郷へ足を運ぶことが多くなり、我が心は昔の自分へとワープする。街並みを車で通る度に、当時の善き想い出がプレイバックされ紐解かれて行くのであった。

 ところが、数十年ぶりとなれば、善き想い出一色に塗られる中で、しばしば幼友達との再会があるが、理想と現実は、思いの外掛け離れていることに気付かされることになる。

 数十年という歳月は、時代を変え、人を変え、互いに育ってきた中で、心の中も変わっているのは当然のこと。しかし、そこで「いや、こんな感じだった!」と抵抗する自分がいるものの、筆者を含め、大人になった幼友達は、遠い昔の絵日記に描かれた登場人物になっている。

 懐かしい、実に、懐かしい。しかし、その心を伝えようとしても、瞬間的な笑みが幼友達から溢れ出るものの、それ以上の会話が成り立たない。そこで時間が止まってしまう。幼い頃のピュアなイメージが、目の前で崩れ去り、リセットされてしまう。

 転校ばかりしていたので、各地に同級生は沢山いてもおかしくはないが、今のようにスマホなどあるはずもなく、筆不精の筆者は、荷造りの度に卒業アルバムなど全てを紛失し、現在記憶に残っているもの、それに、facebookなどで再会した同級生しか映像に浮かんでこない。

 2歳の頃から遊んでいた幼友達との再会もあった。また、小学生時代に運動場でワイワイ遊び回っていた2つ歳上の幼友達との記憶も鮮明に浮かび上がってくる。されど、それは昔の8mmフィルムムービーに記録された動画のように、トーキー(無声映画)として再生されるのみとなる。

 期待大であった故郷だが、今になって思えば、善き時代、善き幼友達は、過去の記憶であり、現実とは大きな落差があり、理想通りにプレイバックするものではないことを思い知らされた。

 幼友達は筆者と同様に、皆、既にいい大人になっている。人それぞれに家庭環境も交友関係も異なり、更には仕事環境など全く異なる世界で生きている。そこに、身勝手にも、過去の8mmフィルムムービーを見せ、喜びの共有を図っても無理がある。

 勿論、幼友達は、一人、二人を除けば皆善人ばかり。社会貢献している立派な大人である。先日も、故郷の饅頭屋さんで買い物をしていると、背後から声が掛かった。何とカトリック幼稚園、そして小学校の同級生であった。

 「Facebookでちょくちょく見ていたから、すぐ分かったよ!」と言ってくれたので、後日、店舗を持つ幼友達へ電話を入れることにした。明るい雰囲気の奥様らしき女性が電話に出てくれた。よって、筆者の携帯番号と数日前の出来事を話し、近日中に再度連絡する旨を伝えたのである。

 ところが、メッセージを送ろうが、電話を掛けようが、全く反応がない。既に数ヶ月が経ったが、何か問題でもあるのかと心配になってくる。しかし、声を掛けられた一瞬間のワープは、やはり、8mmフィルムムービーの世界だったのだと、自分に言い聞かせて、こちらから連絡をすることを諦めた。

 想い出とは、長き歳月の中で、知らぬ間に、自分に都合が良いように、シナリオを書き換えているのかも知れない。哀愁に包まれた、この気持ちはどこにもぶつけようがないが、現実は現実。過去は過去として納得するしかないと考えるようになった。

 夢大き時代を過ごしてきた幼い頃の想い出は、そっと心のアルバムや8mmフィルムムービーに収めたまま、大切な記憶の箱に鍵を掛けておけば良いのかと考える。過去には戻れないと言う現実を直視して、自らの人生観の稚拙さに赤面するばかりとなる。

 筆者のモットーは、『自然体』。思いのまま行動し、思った通りにダイレクトに話をする人間である。良く言えば、『常にガラス張り』。悪く言えば、『整合性にこだわり過ぎる』。さらっとスルーすることが、余り得意とは言えない人間だ。

 このような想い出と現実との落差を知れば、少々痛んだ気持ちは、大切な人との語り合いにて、全て払拭できるのであろうと。

 幼い頃は皆ピュアである。ごく自然に遊び回り、互いに感情をぶつけ合いながら成長してきた訳だ。ところが、大人になると、大抵の場合、現在に至るまでの、それぞれの経験体験なりで、人それぞれに『色眼鏡』で見てしまう傾向が無きにしも非ず。

 自分自身、幼い頃からの性格も考え方も、ほとんど変わっていないと思っているものの、他の人の心にはそうは映っていないに違いない。

 転勤族に生まれ育ち、人より数倍、故郷への気持ちが強かったけれども、現実を直視すれば、それが実寸代の故郷であると思わざるを得ない。

 特に、地震や台風などの大災害や、世界的な伝染病のパンデミックなどが、人の心へも考え方へも、大変な影響を及ぼしたに違いない。時代は変わり、人も変わる。自分自身にそう言い聞かせながら、新たな時代を模索して行かねばならないという考えに至った。

ヒョウモンチョウと黄花コスモス

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