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生きにくい彼女のこと

その昔、動物たちが暮らす森にメスの若いヤマアラシが住んでいた。
その娘は毛並みも良く美人と評判だったが、厄介やっかいな問題をひとつ抱えていた。

その年の冬はいつもより寒くて、近くの川も端が凍るほどだった。吹きすさぶ風の強さに動物たちも凍えて日々を過ごしていた。
余りの寒さに、森の真ん中にある大木のほこらはタヌキやウサギに人気の集会場となった。互いにひしめき合って暖を取るのだ。
「あんまり押すなよ、はみ出るじゃないか」
「文句言うなよ。後から来たくせに」
ワイワイ、ガヤガヤ、枝に集まった小鳥たちも肩寄せ合って賑やかだ。

そこへ現れたヤマアラシの娘さん。ツンと鼻を上げて動物たちに話しかけた。
「おはよう、皆さん。楽しそうね。」
「おはよう、今日も綺麗だね。こっちへおいでよ。」
お気に入りの雄タヌキが声をかけた。

ヤマアラシが毛皮の群れに収まると、あちらこちらから悲鳴があがった。
「痛い!痛い!」「背中にトゲが刺さった!」
彼女のトゲが、近くの動物たちの毛皮を刺していた。
「ごめんなさい。」
彼女は悲しそうにそう言うと、一人ひしめく群れから離れた。

私は皆と寄り添って暖を取ることもできないなんて…彼女はそう思うとひどく悲しくなった。我が身を護るはずのこのトゲが、周りの人を容赦なく傷つける。彼女は己の身なりをひどく悲しんだ。

そう言えば子供の頃もそうだった。私のトゲが痛いって、お母さんは抱っこすらしてくれなかった。お父さんも夜一緒に寝てくれなかった。彼女はスキンシップの大切さを知らずに育ち、今でも周りとの距離の取り方に戸惑っていた。

ひとしきり群れから離れると、彼女は哀しい詩を詠んだ。わが身を嘆く哀しい詩。
寒空の中、美しくも哀しい旋律が森に漂う。聴くものを魅了するようなその調べ、でも強い風のせいで動物たちの耳には届かなかった。

彼女は一人、寒空の下で美しい調べの詩を詠むしかなかった。
もうすぐの春は彼女には遠く感じられた。

やがて風がやんで、雲の切れ間から薄日が差した。
遠かった春が、直ぐそこに来ているように彼女は感じた。




↓続編です


ヤマアラシのジレンマ  (出典:wikipedia)

「ヤマアラシのジレンマ」[注 1]とは、「自己の自立」と「相手との一体感」という2つの欲求によるジレンマ。寒空にいるヤマアラシが互いに身を寄せ合って暖め合いたいが、針が刺さるので近づけないという、ドイツ哲学者ショーペンハウアー寓話に由来する。その日本語訳は以下のとおりである。

ある冬の寒い日、たくさんのヤマアラシたちが暖を求めて群がったが、互いのトゲによって刺されるので、離れざるを得なくなった。しかし再び寒さが彼らを駆り立てて、同じことが起きた。結局、何度も群れては離れを繰り返し、互いに多少の距離を保つのが最適であるのを発見した。これと同様に、社会における必要に駆り立てられ、人間というヤマアラシを集まらせるが、多くのトゲや互いに性格の不一致によって不快を感じさせられる。結局、交流において許容できるような最適の距離感を発見し、それがいわゆる礼儀作法やマナーである。それを逸脱する者は、英語では「to keep their distance」(距離を保て)と乱暴に言われる。この取り決めによって、初めて互いに暖を取る必要が適度に満たされ、互いの針で刺されることも無くなる。とは言え、自らの内に暖かみを持つ人間は、人々の輪の外に居ることを好むであろう。そうすれば互いに針で突いたり突かれたりすることも無いのだから。

この概念について、のちにフロイトが論じ、精神分析家のベラック(Bellak、1916-2002)が名付けた[2]。心理学的には「紆余曲折の末、両者にとってちょうど良い距離に気付く」という肯定的な意味として使われることもある。

なお、実際のヤマアラシは針のない頭部を寄せ合って体温を保ったり、睡眠をとったりしている。

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