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今さら「2週間で10kg痩せるダンス」に手をつけたら気づきがあった話

「軽い運動」の素敵なところ

今さらながら、「HANDCLAP」に手を出しました。

いやぁ遅いですね、遅い遅い。
YouTubeにこの動画がアップされたのがもう3年前ですもんね。公開当時から踊ってたら700kgは痩せてる計算になっちゃう。
身体なくなっちゃってますね。

んなわけ。







しかし、ナメてましたけどこのダンスほんとにいいですね
自分がふだんいかに身体を動かしてないか、踊ってみてよーくよーくわかりました。筋トレそれなりに続けてきたし運動してないわけじゃない、って思ってたけど、全身をしっかり使って動くのと筋トレって全然違うんだなぁと。
そして、中高で部活やってたし全然知ってておかしくないはずのそんなことを今になってようやく初めて知ったような気さえして、要するに本当に身体動かしてなかったんだなぁと骨の髄まで痛感しました。

とりあえず今日は15分間を2セット、朝とお昼に分けてこなしました。
これからもゆるゆると、筋トレの合間に挟む感じで続けていこうかなと思います。

   *

筋トレにせよエクササイズにせよ、身体動かすのっていいな、とようやく気がつい今日この頃です。
痩せられるとか体力がつくとか、そういうわかりやすいメリットはさること、「なんか頑張ってる気になれる」というのがすごくいい。
冴えない1日ではあったけどそれでも筋トレはした!とか、ムカつくことばっかだったけどちゃんと運動したあたし偉すぎ!といった感じで、小さな積み重ねをちゃんとできた自分を励ませるのがたいへん心地よく、精神衛生によろしいなと。
ポジティブに暮らすにはまず運動を!と、元気に呼びかける人たちがたくさんいるのも頷けます。

そして、思えば「頑張ってる気になれる」というのも一つのスキルだなぁ、と今しみじみ感じています。
「頑張ってる気になることができる」って、すごいことじゃないですか。
自分は今日ちゃんとやるべきことをやったぞ、自分にとって必要な努力をちゃんと積み重ねることができたぞ、って思えるってことですよね。
それって日々を上手に生き抜いていくうえで、そして今やっている努力を継続していくうえで、とても大切な能力なんじゃないかと思うのです。

誰だって頑張れば疲れる、誰だって腹が減るのと同じように

何をするにせよ、頑張るというのは疲れます
頭であれ身体であれ、使えば使っただけエネルギーは消費されるし、消耗しすぎれば負担はかかります。
負担になるほど消耗すれば、翌日、翌々日の活動の足をひっぱることになり、十分に頑張ることはできなくなります。
それでも無理をして頑張れば、エネルギーはしっかり底を尽き、頑張ろうにも一歩も動くことができなくなります。

どんなに前向きに頑張ろうと、動いたぶんに見合ったエネルギーは消費されるものですし、減った分が取り戻されるためには、それなりの時間が必要なのです。

毎日頑張りつづけるとは、毎日「必要以上に頑張りすぎないこと」でもある。
一日一日の頑張りの中で、翌日頑張るためのエネルギーまでも消尽してしまわないということも、「頑張る」ということの中にちゃんと含まれています。
日々ものすごく頑張っているように見える人だって、実はそこだけは守っていたりします。
一見無駄にみえる休憩や休息がむしろ生産性を高めるということは、それこそ「HANDCLAP」が流行り出すよりずっと前から、いろんなところで指摘されています。

どれくらいの消耗度を「頑張りすぎ」の基準に置くか、そしてどの程度のスピードでエネルギーを消費しそれを取り戻すか、そこは人によってまちまちでしょう。
そうだとしても、うまくやっている人は共通して、何らかの自分なりの基準をしっかりと置き、その基準とにらみ合いながら歩んでいます。
「日々限界を超えるべく戦っている人」ですらそうです。彼らは「自らの限界」という基準をしっかり見据えているからこそ、ギリギリのところで戦いつづけることができているのです。

どんなことであれ、頑張るのは疲れます。
疲れるからこそ、「どれくらいやったら、自分のことを『今日は頑張った!』と認めていいか」という基準を自分の中にきちんと持っていることは大事なのです。

頑張った気になれない、だから頑張りすぎる

よくある「頑張りすぎ」の原因の一つは、「今日は頑張った!」と感じる基準が自分自身の中にないことではなのではないでしょうか。
自分なりの基準がないから、誰かが「よく頑張った」と言って止めてくれるまで頑張るのを辞められないし、うまくいかなかったときに「頑張りが足りなかったのではないか」と自分を責める方向に追い込まれてしまう。
一日一日の歩みで進める距離は微々たるものだし、どんなに高い目標もその微々たるものを積み重ねることでしかたどり着くことはできないのに、本来一日で進める距離を過小に評価してしまうから、闇雲に身体を動かしてしまうのです。
せっかく懸命に努力を積み重ねようとしているのに、頑張ることと消耗することを履き違えているせいでいつまでも前に進めないというのも、一つの悲劇であると僕は思います。

だからこそ、「頑張った気になれる」というのは一つの強さであり能力であると思うのです。
今日のところは自分を認めてしっかり休もう、と区切りを置けることも、ストイックに困難へと立ち向かえることと同じくらい大事です。
もし「こんなに頑張っているのに上手くいかない!」と日々悩んでいるのなら、少し胸に手を当てて考えてみるのもいいかもしれません。上手くいかないのは、本当に努力が足りないからなのか? むしろ頑張りすぎが自分の足を引っ張っていやしないか?
冷静に見極めることも、熱くなることと劣らず大切だということは、頭に入れておくべきでしょう。

「頑張ったかどうか」を決めるのは誰か

「ちょっとやったくらいで頑張った気になってんじゃねーよ!」という叱責の仕方をする人がいます。
あるいは、「頑張り」を時間や態度で評価する人。
僕はああいうやり方をする人が、年を重ねるごとにますます苦手に、そして嫌いになっています。
俺なりのペースで好きにやるからほっといてくれよ、どうエネルギーを使うかなんて俺の勝手だろ、という気持ちが、どんどん強くなっている。

文字通り勝手な言い分かもしれません。でも、自分が保っていられるエネルギーの総量も、その最も効率のいい使い方も、一番よく知っているのは僕自身です
それこそ、動かさなすぎてモヤモヤしたり、逆に根を詰めすぎて休日一日ベッドから動けなくなったり、そういう失敗を重ねながら、ここ数年でようやく、自分なりの按配を見つけられつつあります。
気がついたのは、自分で思っていたよりもずっと、自分は体力がないし、集中力にもムラがある人間だということ。
行きたい方向へとスムーズに進んでいけるようその舵取りをするのは、僕自身が思っていたよりもずっと大変なことだと、ここにきてようやくわかったのです。

もちろん、やっているつもりが力を抜きすぎていて、結果に結びつく積み重ねになっていない、という場合もあるでしょう。
でも、少なくとも物事の初期段階は、別にそれでも構わないと思うのです。
なんだか全然前に進んでいる感じがしないな、と思えば、自然と欲が出てくるなり、これ以上頑張らなきゃいけないなら別にもういいや、と諦めが湧くなり、気持ちは変わっていくはずです。
気持ちが変わってきたら、素直にそれに従えばいい。
もっと頑張ったほうがよさそうだな、と心から思えたときにアクセルを踏み込めれば、それで十分なのです。

頑張りすぎも頑張らなさすぎも、自分の状態や進み具合からしか判断のしようがないものです。
何かを続けるにはどうしたらいいか、と問われたなら、僕は一つにはこう答えるでしょう。
「ああ、これくらいやったら頑張ったと思っていいんだな」と思える自分なりのポイントを見定めて、それを大事にしてほしい。
そして、「今日は頑張った」と思えたら、そのときはしっかりその気持ちを認めてほしい、と。

おわりに

つい3日前くらいまで、僕は在宅で仕事をするのが嫌で嫌でたまりませんでした。
それは、Zoomで勤務状況を管理され、休憩のタイミングも一律に決められているがゆえに、ペース配分を自分で決められないことに対する不満が、ものすごい勢いで溜まっていたからです。

しかし、最初はそれがストレスになっていることになかなか気づけませんでした
家にいて気持ちがだらけるのは、自分がだらしなくやる気がないからではないのか、サボり癖の抜けない無能な人間だからではないかと、自分を責める方向にばかり流れていたのです。
でも、ある日思いっきり人に愚痴を吐き出してみて気がつきました。やる気が出ないのもやたら疲れるのも、自分の基準で作業を進めるのを妨げられているからに他ならないのだと。
本当は20分取りたい休憩を10分に切り詰められただけで、あるいはいくらでも作業ができてしまいそうなフロー状態のときに「休憩時間」を申し渡されて流れをせき止められただけで、人はものすごくストレスを感じるものだということを。
甘えと言われようとなんだろうと、作業効率に雲泥の差が出ている以上、僕は認めざるを得ません。
そして願わくは、自分にとって一番いい形で頑張りつづけられるところに身を置いて、頑張ることの楽しみを、もっともっと味わっていけるようになりたいと、心から思った次第です。

   *

昨今は「頑張らない」時代、「我慢をしない」時代になりつつあると、いろんなところでひしひし感じます。
ゆるくて甘い時代、人にとってはけしからんと感じられる時代なのかもしれません。
僕もときどき、「頑張らない」「我慢しない」が拡大解釈され、本当の意味での怠惰さまでも正当化されてしまうことになりやしないかという危機感を覚えることはあります。
それゆえに、頑張るな、時には休め、という言葉を安易に使いすぎることに対する小さな抵抗感のようなものは、心の片隅にあるのです。

ただ、僕としては、本当に大事なのは「日々の行いが善き人生に結びついているか」だけであって、頑張りすぎも怠惰さも、それに反するという点ではさして変わらないように思えます。
僕にとって頑張りすぎは、僕の人生を損ない、無駄に時間を奪っていくがゆえに、排除すべき悪弊であるにすぎないのです。
なんだっていいけど、それに足を引っ張られて嫌な思いをするのはごめんだぞと。
怠惰も頑張りすぎも、いいことがないから嫌なのであって、頑張ることそのものを否定したいわけではないのだということだけはっきり述べておいて、この記事をひとまず終えたいと思います。

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