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四天王寺の思い出散策

思いつきでついでに立ち寄ったため、すっかり忘れていましたが、今月の3日、久しぶりに四天王寺を散策しました。

前に寄ったのは長男をまだベビーカーに乗せていた時期なので、かれこれ26年も前になります。

この近所にある「一心寺」が菩提寺のため、周りの道路はしょっちゅう通っていますので、外観は飽きるほど眺めていますが、あらためて立ち寄る機会はほぼ無くなっています。


仏教伝来直後に創建された日本最古の官寺という由緒を持ちながら、あまりにも身近な存在のため、当たり前の風景の一部となっているのです。

昨年も、自分の体験談を交えて、四天王寺の事を書かせていただきましたが、今回も、当寺の基本的な事を掘り下げてみたいと思います。



創建から1400年の歴史をもつ

車でしたので、駐車場がある南の「南大門」から入りました。

「南大門」

その伽藍配置は「四天王寺式伽藍配置」といわれ、南から北へ向かって中門、五重塔、金堂、講堂を一直線に並べ、それを回廊が囲む形式で、日本では最も古い建築様式の一つです。

四天王寺HPより

四天王寺は593年、聖徳太子による創建なので、今年でなんと1420年目を迎えるという飛鳥時代当初からの寺院なのです。

聖徳太子が生存中に建てられたお寺を「聖徳太子建立七寺」といい、四天王寺はそのうちの一つに数えられています。

他の6つのお寺は以下の通りです。
〈奈良県〉
・法隆寺
法起寺ほっきじ
中宮寺ちゅうぐうじ
橘寺たちばなでら
葛木寺かつらぎじ
〈京都府〉
広隆寺こうりゅうじ

奈良の明日香村の「飛鳥京」の時代だけあって、さすがに奈良県内がほとんどです。

この中で他に訪れたのは「法隆寺」ですが、それこそ素晴らしいお寺です。それもまたの機会にレポート記事を書かせていただきます。


「仁王門」と真後ろに「五重塔」

その名の由来となった四天王とは、
・東:|持国天《じこくてん》
・南:|増長天《ぞうじょうてん》
・西:|広目天《こうもくてん》
・北:|多聞天《たもんてん》)
仏教界における東西南北を守る四神を指し、元々はこれらが御本尊だったのですが、平安時代から救世観世音菩薩ぐぜかんぜおんぼさつとなっています。

「天王寺」という地名もこの四天王寺を略した名なのです。


「五重塔」と「ハルカス」



宗派も時代も問わない信仰

四天王寺の宗派は和宗です。

593年創建当初は、概念的に宗派というのはなく、奈良時代に入ってから聖徳太子仏教として南都六宗が誕生します。
(法相宗・倶舎宗・三論宗・成実宗・華厳宗・律宗)

しかし四天王寺はいずれにも属さない別格の本山でした。

やがて平安時代には、空海と最澄が四天王寺にて修行をしたこともあって、空海の真言宗と最澄の天台宗が日本仏教を牽引するようになると、真言宗と天台宗の掛け持ちで四天王寺の別当を務めるという時代もありました。

結局は天台宗と深く結びつく事になったのは、聖徳太子が重視していた「法華経」を最澄の「天台宗」も重視し、最澄自身が聖徳太子を師と仰いでいたからなのです。

そのまま戦前までは天台宗でしたが、元々の基本思想となる十七條憲法の第一條の「和を以って貴しとなす」より「和」から「和宗」となりました。

弘法大師空海像

「和宗」になったのが戦後の昭和24年(1949)との事ですので、お寺の歴史のわりには「和宗」自体はほんの最近のことなのですね。

まさしく宗派という垣根を超えた「和」を基本とした宗派です。

全部の写真は撮ってはいませんが、寺内にはあちこちに他宗派に関連した痕跡があります。

親鸞しんらん聖人像

天台宗の最澄、真言宗の空海の他、
融通念仏宗の良忍りょうにん、浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、時宗の一遍いっぺんなどもこの四天王寺に籠って修行したといいます。



幾度の災害で失われ何度も再建

現在ある中心伽藍は昭和38年(1963)に鉄筋コンクリートで飛鳥様式を再建したものなのです。

どうりで見た目にも新しい。

同じように聖徳太子が創建した奈良の法隆寺は飛鳥~奈良時代の建築や彫刻、美術工芸品などを多く残されているのですが、この四天王寺は度重なる災害や、戦乱などに巻き込まれて何度も焼失しています。

北の|導鐘堂どうしょうどう
大晦日の除夜の鐘を一般参拝者が衝ける。

天災は仕方がないとして、人災だけを挙げてみると、数々の戦乱の犠牲になってきたことがわかります。

・1467年から10年間も続いた「応仁の乱」の大内政弘による放火
・1576年、石山合戦の「天王寺の戦い」織田信長による放火と寺領没収
・1614年、「大坂冬の陣」にて焼失
・1945年、3月13~14日の第1回大阪大空襲で焼失

失われるたびに、時の権力者により再建されてきましたが、中には町人たちが中心になって再建した事もあり、どれだけ大坂にとって なくてはならない信仰対象であり、必要不可欠な寺院だったがわかります。


後ろが「六時堂」、手前が「石舞台」
毎年4/22聖霊会しょうりょうえ(聖徳太子の命日)に雅楽が奉納される。




部活のランニングを思い出す

こうやって伽藍の周りの石畳を散策していると、部活でランニングしていた事を思い出します。

「亀井不動尊」
近畿36不動尊の第一番霊場・本尊は水掛け不動尊

チビなのですが、中学の頃からバスケット部で、高校に上がってもやはりバスケ部に入りました。

その基礎トレで一番キツかったのは、この境内を走ったあと、校庭のコートに前もって並べた10個のハードルを飛ぶというものでした。

しかも境内のランニングは3週走ったあと、4週目からは順位が3位までの人から順に抜けて休憩OKなのです。

1年生の頃は、なかなか先輩たちには勝てず、結局、最後まで走らされ、1分たりとも休憩できないまま、コートに戻ってハードルをする羽目になるのです。

キツかった~!
運動系の部活は、練習内容も中学と高校とでは段違いです。

当時は、ただひたすら石畳のみを見つめて一心不乱に走っていました。
由緒ある寺院でその歴史を堪能するなんてこれっぽちもなく、単なる苦行の場だったので、ここを歩いていると思い出すのはしんどい事ばかりです。

それに加えて、
先輩たちの意地悪さ。

女子高なので、男子の目は一切ないためか、「いけず」も徹底しています。
何かにつけて一年生は呼び出されて「ちょっとアンタらな~」という一言から始まり、ネチネチと言われるのですが、不思議な事にその内容は全く思い出せません。

当時から「しょーもないことやな」と思いながら聞いていたので、右から左に見事に流れていました。
同時に、私らは後輩たちには絶対しないと、同級生同士で誓い、後輩たちとは出来るだけ楽しく過ごしたつもりです。

イジメが伝統だなんてちょっと違うでしょう。


確かここだったかな?
一泊修行させれたところは。

「本坊」
寺内図の北東の角にある

高3の時に「灌頂会かんじょうえ」という謎の儀式を受けさせられ、とても不思議な体験をしました。

外観などは一切憶えてはいませんが、なんせ寺域内の一番奥の宿坊だったと記憶していて、その時はあれだけ境内を走っていたにもかかわらず、こんな所があったのかと驚いたのですから。
たぶんココだと思います。


その気になればいくらでも来れる所ではありますが、めったに来ることはなく、たま~に散策すると、辛い事もあり、厳しい教育方針でしたが、それなりに毎日を楽しんでいた事を思い出し、なんだか胸アツになりました。


「亀池」
元々は蓮が咲き「蓮池」と言われていたが、この亀井堂があるため一般人がここに亀を放すようになり、たくさん住み着いたためこの名になった。



「校門」
私が通っていた頃はこうではなく普通の鉄格子門だった。
毎朝ここで服装や持ち物検査があり、違反者は保護者呼び出しだった。
奥にある「慈母観音像じぼかんのんぞう」に必ず一礼した。




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※画像は全て本人撮影のもの。
トップ画像は「西重門」と「五重塔」

【参考文献】
和宗総本山 四天王寺
Wikipedia
研究論文 四天王寺の慶長再建について





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