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【オチのない話】親子間の「負の連鎖」と毒親が生まれる背景について考えてみた

最近、「自分語りは読むに堪えない」といった意見をSNSでよく見かける。

確かにひとりよがりな自分語りなど他人が読んでもつまらないのは間違いない。

また、自分語りはたんなるナルシズム、さらに言えばもっと下品な言い回しのあの言葉に例えられるほど品のない話でもあろう。

そんな自分語りをnoteにつらつらと書き続けている私も、品のないナルシストの自分語り野郎と言われても仕方ない。

しかし、最近子どものころからずっと心の奥に押し込めていた負の感情とニュートラルな気持ちで向き合えるようになったのを機に、それを思い出話として消化……もとい、昇華させてもいいんじゃないかと思うようになった。

そこで、今回は思い切りナルティシスティックな自分語りを長々としたい。その類の話がお嫌いな方はここで今すぐブラウザのページを変えてください。

※ここからオチのない自分語りスタート

先日、傘寿を過ぎた母が「私の母親は子どもの頃に私をほめてくれなかった。それが今になって悲しい」と寂しそうに言った。

その言葉を聞いた瞬間、内心「どの口がそれを言うか?」と毒づいた。母もまた子どもの頃の私をほめたことがなく、口を開けばあら捜しばかりしていたからだ。

しかし、少しあとになって気づいてしまった。

ああ、母は自分がほめられたことがないから、子どもをほめる術を知らなかったのだ……

と。

そのことに思い至ったとき、自分の自己肯定感の低さは祖母から続く負の連鎖だったか!と目からうろこが落ちた思いだ。

ここで、少し私自身の子ども時代の話をしよう。

子ども時代の私は、どちらかといえば優等生だったと思う。

性格に少々難があったが、小中学校時代の成績は常に上位をキープ、賞をもらったことも1度や2度ではない。もちろん大きく道を外したこともない。

といっても、私が特別高い能力を持っていたわけではない。たんに親にほめられたくて人並み以上に頑張った結果、平均より少しよくなった程度だ。

それでも、母は決して私をほめなかった。

何度100点を取っても賞をもらってもほめられた覚えがない。「それくらい当たり前」と言われて何度脱力したことか。

実際にはほめられた時もあったのかもしれないが、少なくとも私の記憶には残っていないのだ。

一方、母がよく口にしたのが、私に友達が少ないことやなにをやってもなぜか目立ってしまうキャラクターへの批判。

「勉強ができてもそんなわけのわからない性格では」とよくしかめ面で言われたものだ。

やがてそんな母に期待しなくなり、私はほめられるための努力をやめた。おかげで自己肯定感を上げられないまま今日まで来てしまった。やいやい。

(もっとも学習能力はあったらしい。最近は自己肯定感の低さを利用されることも減り、比較的平和な日々を過ごしている)

私にとって、子どもの頃母がなにをやってもほめてくれなかったことはとても悲しい事実だ。今でも少しだけ母を恨む気持ちがある程度に。

しかし、そのように育って自己肯定感が低くなっても、親になった自分が「我が子をほめない負の連鎖」を断ち切ることはできるはずだ。

事実、私は母と同じことはしなかった。自分がされて嫌だったことを子どもにする気にはなれなかったからだ。

私は非常に感情的に子どもを叱るダメ親だったが、子どものことはよく褒めた記憶がある。

子どもに自分より優秀な部分があれば素直に「すごい!」と感嘆してほめた。私にできて子どもにできないことはあったが、それをけなしてもしょうがないという気持ちもあった。

それで子どもが調子に乗ったこともあり、母には「それみたことか」とよく言われた。しかし、子どもは社会生活の中で自らそこを修正しながら自立に至り、今はいち社会人として立派にやっているからよしとしよう。

そんな我が子を見て、「本人が多少調子に乗ろうが、やっぱり子どもはほめて育てるのが正解だ」と私は確信している。

そのような意味で言えば、私はちゃんと祖母や母からの負の連鎖を断ち切れたと自負している。

そんな自分の子育てを振り返るにつれ、1つの疑問がわいてきた。

母がなぜ「子どもをほめない負の連鎖」を断ち切れなかったか?

という点である。

その理由として私が思い至ったのが、女性が非常に自由を奪われていた時代背景が生んだ弊害だ。

実は、母方の祖母は元キャリアウーマンだった。それが負の連鎖の始まりだったかもしれない。

祖母は「年頃の娘がいつまでも働いていてはいけない」という周囲の思惑から仕事を辞めさせられ、見合いで結婚した相手は優秀だが男尊女卑の石頭だった。

さらに、結婚後は本来の性格を封じて良妻賢母になることを求められ、前向きに努力したがやはり性格的に無理があったらしい。その結果毒親のキャラクターを生み出してしまったようだ。

そんな祖母は、従順でおとなしく、非常にまじめな性格の長女、つまり私の母に一切の家事を任せようとした。昔の家事だから大人でも重労働だったはずだが、年端もいかない子どもにそれを押し付けてしまうところが祖母の毒親たるゆえんだろう。

元キャリアウーマンではっきりとものを言う祖母と、おとなしく従順な性格の母との組み合わせは不幸な結果になってしまった。

もし今の時代であれば、祖母はキャリアを中断しない道を選び、苦手な家事を外注などして乗り切ることもできただろう。

しかし、当時は女性が働くことすらよく思われず、一般家庭の分際で家事の手抜きや外注など言語道断。明らかに生まれる時代を間違えた祖母はストレスから毒親となり、その毒を私まで浴びる結果となってしまった。

そうなった原因は祖母や母自身の性格にもあったろうが、私はやはり時代背景の影響が非常に大きかったと思うのだ。

母が私をほめなかったもう一つの理由は、ごくプライベートな理由だ。それに気づいた時は悲しかったが、今は非常に穏かな気持ちでその事実を受け入れることができる。親子の間でもそのようなことは普通に起こりうるからだ。

端的に言えば、私もまた母と性格が違いすぎた。

母は祖母の要求にも従順に応えたが、私はまったく違った。幼いうちは従順だったが、少し大きくなってからは自分ができないこと、やりたくないことについては母の要求を拒む、または「はい」と返事だけしてスルーする、のどちらかで応じていた。

そんな私が母には許せなかった……のだろう。それで私にだけことさら厳しく接したようだ。母自身は決して認めないが、多分間違いない。

子どもの頃から、時折母が私に向けて憎悪のような感情を見せていたのは気づいていた。それを今母に言っても全否定するし、私も気のせいだと思ってきた。

しかし、母から詳しく祖母の毒親ぶりを聞いて以来、やはり私の気づきは正しかったと確信している。

自分自身が幸せを実感できない人生を送ってきた人は、自分の血を継ぐ我が子が幸せそうにしているのを妬む毒親になるのかもしれない。

子どもからすればはなはだ迷惑な話だが、そのような負の感情は本人以外に止めようがない。他の人にはどうにもできない。そんな親に生まれた不幸をとりあえず受け入れ、心の中で距離を置けばいい。

私は幸い性格が違っていた上に、時代も私の性格にだんだん適したものに変化しつつある。よくも悪くも自由な性格の持ち主なので、良くも悪くも自由であることを求められる今の時代は生きやすい。

すでに私が親になったころはそのような変化の兆しがあり、私は女として母として抑圧されながらも自由になれる部分があった。

そんな時代の変化が私の性格にマッチし、「子どもをほめない負の連鎖」を断ち切れた可能性は高い。

もしそうであればそれは私の努力の結果ではないわけだが、結果的に祖母から受け継がれた子どもをほめない悪しき習慣が断たれたのであればそれでよしとしたい。

ここまで長々と書いた、オチのない自分語りをお読みいただきありがとうございました。

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