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「姑」の気持ち

私が「姑」になってから、SNSや子育て世代向けメディアで「嫁」と思われる人が書く姑批判が胸に突き刺さるようになった。

かつては自分もまたそちら側にいたはずだ。それに、私の姑は健在で、まだ私は「嫁」を卒業していない。加えて、子どもの配偶者との関係もまだ薄い。そもそもコロナ禍で会う機会がほとんどないので、もめるほど近しい関係になっていない。

にもかかわらず、私はすでに「姑」の気持ちになっている。私から見れば些細なことで「嫁」や「婿」と呼ばれる人たちが罵詈雑言に近い姑批判を展開するのを見ると、ネット上で姑を「公開処刑」する「嫁」や「婿」が無性に憎らしくなり、一度も会ったことがないどこかの姑に加勢したくなるのだ。

そのような心境の変化を日々実感するにつれ、「ああ、私はすっかり姑根性が身についてしまったな……」と遠い目になってしまう。

姑になって気づいたことがもう一つある。「自分が姑にやったことは必ずブーメランとなって自分に返ってくる」ということだ。おそらく私もこれからそのような経験をするだろう。いや、すでに経験しているかもしれない。私がそれを知らないだけで。

私も、若い「嫁」だった頃は何度も姑と壮絶なバトルを繰り返し、時に嫁同士の会話で罵詈雑言レベルの姑の悪口を展開した時期があった。当時はまだSNSがなかったから「公開処刑」とまではいかなかったが、やっていたことは現在SNSで姑の罵詈雑言を書いている「嫁」や「婿」と大差ない。

それはすなわち、姑の立場になれば自分もまた些細なことで「嫁」や「婿」の逆鱗に触れ、SNSなどで「公開処刑」される可能性があるということだ。因果応報、自業自得とはよく言ったものだが、私にもこれまでの行いの報いが返ってくる日が来たらしい。

そうなってから初めて、おそらく姑が私に対してどんな気持ちで対峙していたかがよくわかった。また、姑が彼女なりに私に気を遣い、対応に苦慮していたであろうことも理解できたような気がする。

以前、私の姑に「あなたが姑になれば私の気持ちがわかるでしょう」と言われたことがあるが、その時は「ふーん?」としか思わなかった。しかし、子どもが結婚して自分が「姑」の立場になってから、初めてその言葉が実感としてわかるようになった。

確かに、姑の気持ちは自分が姑の立場にならないとわからない。おそらく今SNSで姑の悪口を展開している「嫁」や「婿」の人たちも自分が舅姑の立場にならないとその気持ちはわからないだろう。時代や世代が変わっても、案外その辺りは変わらないのかもしれない。

まあ、それもまた致し方あるまい。これから姑として不愉快な思いもするかもしれないし、子どもの配偶者にSNSで「公開処刑」されるかもしれない。それでも、よほど度がすぎた「公開処刑」でなければ見て見ぬふりをし、かつて自分がやってきたことへの報いとして鷹揚に受け止めるしかないだろうとは思っている……といっても、それほど立派な人間ではないのでちゃんとできるかどうかはわからないが。

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