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吉田恭大『光と私語』

第1歌集 とても醒めた視線で自他を見ている。どこか現実や人生から一歩引いたような立ち位置。醒めた心のままに、飾らない言葉で風景を切り取っていく。無機的な都市を詠いながら、底に孤独感が滲む。

外国はここよりずっと遠いから友達の置いてゆく自転車

 「外国」という漠然とした言い方。「ここ」というもっと漠然とした言い方。今いるところも、これから行くところも茫洋としている。「ここ」に比べればどこだって遠いのだけれど、「外国」という言葉を持って来たことによって、友達が遠ざかっていく印象がとても強くなる。今まさに、自転車を置いていこうとしている場面だろう。そして主体は、この自転車を見るたびに外国に行った友達を思い出すだろう未来の感情を、先取りして感じている。

友達の部屋から見える友達の東京に伸びきる電波塔

 友達の部屋から見えるのは、友達にとっての東京とその空だ。それは自分の部屋から見える、自分にとっての東京とは異なる。こんな東京があるんだ…。その友達の部屋の空には電波塔が見える。空に伸びているのではなく「伸びきる」。これ以上伸びられないぐらい伸びきった電波塔。もうこれ以上の変化は無い、何かをやり切った後のような感覚。主体も友達と二人、何をしているでもなく、空も見ているわけでもなく、見ている。

筆跡の薄い日記の一行をやがて詩歌になるまでなぞる

 弱い力で書かれた、筆圧の薄い日記の一行。書く気が起こらないままに、記録しておくだけの気持ちで書いたのか。あるいは書けないほど辛いことがあったのか。その時の気持ちを繰り返し反芻する。それはやがて一行の詩歌になる。気持ちを辿り直すのに、日記は絶好の道具かも知れない。日記に書かれた走り書きの現実を、詩歌にしていく時間。

恋人の部屋の上にも部屋があり同じところにある台所

 現実の切り取り方が上手い歌。集合住宅では同じ間取りの部屋がどの階にも縦に並んでいる。玄関の上は玄関、台所の上は台所だ。同じ動作をしていることが音で伝わってくることも多い。上の階の人、今、料理しているな。水を流しているな。そんな部屋の中にいる感覚と、建物を横から透視しているような、外から見ている感覚が同時に感じられる。自分の部屋ではなく、恋人の部屋なところもいい。上の部屋の人は異物なのだが、主体自身もまたこの部屋にとっては異物なのだ。

その角のつぶれる前のコンビニの広々として闇ではないな

 前の歌は異なる空間を同時に見ているような歌だが、この歌は異なる時間を同時に体感しているような歌だ。つぶれる「前」と言えるのはそれがつぶれた後だからだ。その何もない空間に立って「前」のコンビニを思い描く。コンビニもそれがつぶれた後の空間もどちらも広々としている。コンビニは煌々と電気がついていたけれど、今の空間も周りの灯りでぼんやり見えている。それを闇ではない、と捉える。最後の「な」で認識が伝わる。上句が序詞のように積み重ねられているために、下句の空虚さが引き立てられる。

自転車屋に一輪車があって楽しい、あなたには自転車をあげたい

 自転車イコール二輪車と思っていたのに、自転車屋に行くと一輪車があった。その意外性が楽しい。一輪車と言えば小学生たちが楽しそうに乗っている姿が目に浮かぶ。それも楽しく感じる理由の一つ。そしてあなたには自転車をあげたい。一輪車より安定して、速く走れる自転車を。しかし、主体はあげることができないのだろう。「あげたい」の後ろに「でもあげられない」というつぶやきを感じる。また、主体はあげたいけれど、あなたは求めていないのかも知れない。「楽しい」という言葉があるから寂しさが響いてくる。

旧い海図を封筒にしてまひるまの埃きらきら立ち上がる部屋

 語彙が魅力的。古い海図。それを切り取って作る封筒。その作業をしていると海図やその回りに溜っていた埃がきらきらと空中に立ち上がっていく。その封筒でどんな手紙を出すのだろう。空想の歌でも構わない。読者にも作者と同じ光景が見える。

生活は日々のあなたを書き換えて辿れば美しい詞書

 生活していくと、少しずつ人間は変わっていく。良い方向に変わることもあれば悪く変わることもあるだろう。多くの変化は良くも悪くもなくただの変化だが、あなたの変化は「美しい」。その変化を辿ると、それは短歌でいう詞書になる。次に来る歌の説明である詞書。あなたの変化を詞書として辿った後で、歌にあたるものが来る。それは主体とあなたとの今後ということだろうか。未知な未来が歌になる一瞬前を描いた、と取った。

身のうちに持ち得るだけの熱量を抱えて人は目を閉じており

 その熱量に対して、ても多いと思っているのか、少ないと思っているのか。でもそれがその人の限度なのだ。これ以上の熱量は持てない。限界いっぱいまでの熱量。目を閉じて自分の熱量に浸っている人を、外から見ている主体。その人の熱量に対して一歩引いたような目線を感じる。共にその熱に浸ることが出来ない冷静さがあるのだ。

この人も嵐のあとの海岸に打ち上げられたかたちで眠る

 眠る時の無防備な姿。嵐のあとの海岸に打ち上げられた、という比喩が激しい。よほど苦しんだ後のような、絶望して動きを止めた後のような姿。それを「かたち」という言葉で表す醒めた感性。初句の「この人も」の「も」が強い。他にもそんな姿で眠る人を知っている。あるいは自分の隣で眠る人はみんなこのような寝姿なのだ、という気づきかも知れない。その「かたち」の遠因に主体自身があるような。愛し合ったあとの姿なのか。そうであれば主体の中に嵐があるのかも知れない。

いぬのせなか座 2019年3月 

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