見出し画像

今野真二『百年前の日本語』(岩波新書)

 副題は「書きことばが揺れた時代」。主に明治期の書きことばの変化について、江戸期からの書きことばを考察し、さらにその影響を現代まで視点を延ばして考察している。射程は現代にあると言えるだろう。特に後半の「漢語」の話が興味深かった。語の使われ方の変遷が分かり、他の文献を読む際の基礎的な理解の元になる本だ。

以下は要約ではなく、自分の気になった個所を忘備録的に書き留めたもの。

はじめに より
〈日本語に「明治維新」に匹敵する大きな変化があったとすれば、それは明治期にあったのではなく、明治期から現代に移行する間に成し遂げられたものとみるべきであろう。〉
 現代の日本語の書きことばはここ百年ばかりのむしろ特殊な状況なのだという前書き。人間は今自分が持っている基準こそが全ての時代に通じるスタンダードだと思いがちだが、それはたかだか自分の人生の長さの中で通用するものでしかない。

第1章 百年前の手書き原稿 より
〈わたしたちが目でとらえるのは「字形」であるが、それがどのような「字体」を書いたものであるのか、どのような「字体」が実現したものか、を認識しているのであって、それが「字をよむ」ということである。その認識、判断は、わたしたちの脳内に形成されている「文字概念」に基づいて行なわれている。〉 P.4
〈さらに「書体」というものがある。漢字に関しては「隷書体」「楷書体」「行書体」「草書体」という述語が使われることがある。現代日本においては(…)「楷書体」「行書体」「草書体」を連続したものとしてとらえ、それを「書き方の丁寧さの違い」と認識しているふしがあるが、中国においては(…)漢の時代(前一~二世紀頃)に隷書体が普及し、初唐の時期(七世紀頃)に楷書体が完成した。行書体は楷書体からうまれ、草書体は秦時代(前三世紀頃)以前に成立した篆(てん)書体から派生した。〉P.4
 「字形」「字体」「書体」さらに書体の日本における成立と中国における成立。術語としてしっかり理解したい。

〈そもそも「新字体」・「旧字体」という呼称の発端となったのは「当用漢字表」であった。昭和二一(一九四六)年一一月一六日(…)。(…)などのように「簡易字体」に「原字」が添えられている。この「当用漢字表」における「簡易字体」を、新たに採用された字体という意味合いで「新字体」、「原字」を「旧字体」と呼ぶことがあった。〉P.15
 これは厳密な意味合いで、ということだ。
〈昭和二三(一九四八)年二月一六日には「当用漢字表」に載せられた漢字の「音・訓」についての定めである「当用漢字音訓表」が内閣告示される。その「当用漢字音訓表」の制限的な面を緩やかにした「改訂当用漢字音訓表」が昭和四八(一九七三)年に内閣告示され、昭和五六(一九八一)年一〇月一日に「常用漢字表」(登載漢字数一九四五字)が内閣告示される。そして平成二二(二〇一〇)年一一月三〇日に、改訂された「常用漢字表」が内閣総理大臣菅直人の名を附して内閣告示される。登載漢字数は二一三六字となっている。〉P.15
 これらの「表」が書きことばの一元化への指針になっている。私たちは無意識の内にこれらが「正しい」と思い、意識してこれらに合わそうとしている。その他、漢和辞書に重大な影響を及ぼした『康煕字典』についても覚えておきたい。

第二章 「揺れ」の時代 より
〈~などの(広義の)漢語、~など、和語と漢語とが複合した混種語が使われており、それらが仮名書きされている。〉P.45
 例を見ても、漢語と混種語の区別がさっぱりつかない。これは後で出て来る、漢語の問題ともつながる。

〈明治期は印刷がひろまり、「読み手」の層が拡大した時期であった。言い換えれば、言語運用能力がさまざまに異なる「読み手」に、どのように文字情報を伝えるかということについての模索が、意識するとしないとにかかわらず、行われていた時期であった。〉P.49
 言語運用能力の差、ということを論じた部分。拡大的な使用に「ついていけない」人が四割もいたら、使う側に「わからない」原因がある、という部分も面白かった。現代にも通じることだ。

〈明治期においては、伝統的な漢語=古典中国語、江戸期以来中国語から借用してきた新しい漢語=近代中国語、日本でつくりだされた擬似漢語、標準的ではない語、外来語といったさまざまな語が和語とともに日本語の語彙体系をかたちづくっており、それらすべてをやはり漢字で書く、書きたいとなった場合、「表意的な書き方」・「表音的な書き方」という二つの表記原理を駆使することになる。そしてそのいずれにおいても活躍していたのが、「語形」をはっきりと示す「振仮名」であった。〉P.54
 これをわかりやすく現代語で説明すると、
〈現代語で考えてみよう。(…)外来語「テールライト」に漢字「尾灯」をあてている。〉P.57
 歌詞などにも多様されることだ。結局時代は変わっても原理は同じと言うべきか。

〈「話しことば」を文字化したものが、すぐにそのまま「書きことば」になるということではない。「話しことば」と「書きことば」とは、それぞれに特徴を備えた、独立した「言語態」でありながら、両者の間にはつねに両者をつなぐ「回路」のようなものが確保されていると考えればよい。〉P.62
 これもまた現代に通じる話だ。
〈明治期は「書きことば」内に、「話しことば」で使われていたと思われるさまざまな語形が持ち込まれ、「書きことば」そのものが拡大していった時期といえよう。そうした中で、ある場合には語義がちかい漢語にあてる漢字を借り用い、ある場合には仮名で書き、また振仮名や送り仮名を活用しながら、そうした「新しい書きことば」を文字化する工夫がなされていった。〉P.68
 単に言文一致とだけ理解していてはいけないのだ。
〈少なくとも表記に関していえば、現代のような状態になったのは、日本語の長い歴史の中で、ここ百年ぐらいの間であり、それまでは、「揺れ」の時期がずっと続いていた。現在が日本語の歴史の中ではむしろ特異な状況下にあるのだが、現代に生きるわたしたちには、それがわかりにくい。そして、例えば一つの語に幾つもの書き方があった明治期が奇異なものとみえる。〉P.70
 識字率を上げるための努力とも関連していることだろう。
〈「これまでの書きことば」に「新しい書きことば」を対置させれば、前者が「雅」で、後者が「俗」とみることはできようし、「書きことば」と「話しことば」とを対置させれば、前者が「雅」で、後者が「俗」ということにもなる。明治期とは「和語・漢語・雅語・俗語」が書きことば内に一挙に持ち込まれ、渾然一体となった日本語の語彙体系が形成された「和漢雅俗の世紀」であった。〉P.82
 詩歌の文語口語などというのでは追いつかないスケールの大きい変化の時期であったのだ。

第三章 新しい標準へ より
〈明治期は「不特定多数への情報発信」が意識され始めた時期である。それは言い換えれば「拡大する文字社会への情報発信」であり、それにふさわしい日本語が模索され始めたということでもある。〉P.85
 そのため書き方は統一されなければならないということだろう。
〈「話しことば」の語形は、「書きことば」側からみれば、何程かの「訛形=非標準語形」になる場合がある。ある語形が「話しことば」で使われていたとしても、その語形が「書きことば」では使われないことがわかっていた場合、あるいは「書きことば」としてはふさわしくないと判断された場合、語形としては存在しているにも関わらず、「書きことば」としては姿を現さないということはあり得ることで、文献にみられないからその語形がなかったとまではなかなかいえない。〉P.111
 録音できない時代の話し言葉は再現できない。

第四章 統一される仮名字体 より
〈明治三三(一九〇〇)年八月二一日に、(…)「小学校令施行規則」(…)〉P.129
 ヤ行「やいゆえよ」ワ行「わゐうゑを」などは違うが、現在のものと仮名の字体は同じだということだ。
〈和語・漢語(・外来語)といった語種の区別が(少なくとも辞書編集者には)はっきりと意識されていたことが窺われる。〉P.143
    〈和語と漢語とがはっきりと、かつ強く結びついて、日本語の語彙体系を形成していたと考える。現代日本語においては、外来語を片仮名で書き、それ以外では平仮名を使う。『言海』においては、和語・漢語・外来語が鼎立していたわけであるが、現代日本語においては、和語と漢語との区別は殆ど意識されないし、表記上も区別しようとはしていない。〉P.143
 ここ、一番興味深い。現代語では外来語とそれ以外なら区別できるが、和語と漢語の区別はほとんどできない。明治時代は仮名の種別や、活字の種類で辞書の和語と漢語を分けていたということだ。
〈このように、和語と漢語という語種の意識が希薄になったということが、明治期から現代に至る間におこった大きな「事件」ではないだろうか。それは、漢語が漢語らしさを失ったということでもある。〉P.143
 和歌では漢語を使わず、和語のみという約束事があるが、それはその時代の歌人たちは、和語と漢語をはっきり区別できたということだ。

第五章 辞書の百年 より
〈同じような語義をもつ二つの漢語は、いったんは漢語辞書の見出し項目となったが、(…)あまり語義差を考えなくてよいような、同じような語義をもつ漢語は結局は複数存在しなくてもよいことになり、次第に「淘汰」されて使用される語が絞られていく(…)〉P.171
 田中牧郎『近代書き言葉はこうしてできた』とも繋がる話だ。
〈収録語数が一万を超えるような漢語辞書は、日本語の語彙体系内に潜在的に存在した漢語の「可能性」を示しているとみたい。
 そうした古典中国語に加えて、江戸期からは「話しことば」を含む近代中国語が日本語の語彙体系内に流入してきており、明治期はやはり漢語語彙が(一時的に)膨張していたといえよう。(…)そこから漢語は「淘汰」され整理され始めたと考える。(…)「淘汰」や整理は明治の末年、大正期をむかえるまでにほぼ終了しているのではないだろうか。そうだとすれば、そこに画期があることになる。〉P.173
 この淘汰や整理はずっと進行しているのではないだろうか。漢語に限らず、よく使われる外来語も移り変わりがある。
〈「唐音」は、(…)書きことばとしての古典中国語ではない中国語ということになろうか。中国語においては、「書きことば」を「文言(ぶんげん)」、話しことばを「白話(はくわ)」と呼ぶが、幾分なりとも「白話」的な語、また四書五経に代表される中国古典である「経(けい)書」で使われない語といった傾きをもつ語といえよう。とすれば『言海』を編纂した大槻文彦には、いわば由緒正しい「漢語」と、そうでない中国語との区別がはっきりとみえていたことになる。〉P.175
 漢語は日本語の一部、唐音は外国語の一部、という考え方だ。和語と漢語は違う活字の平仮名で表し、唐音と外国語は片仮名で表す。
〈多くの漢和辞典において、そこで採り上げられる漢語は、古典中国語が中心となっている。本書でふれた近代中国語は採り上げられていないことが多い。近代中国語は、江戸期から明治期にかけて日本語の中にとりこまれ、現代も使われていることが少なくない。漢語もいうまでもなく外来語であるが、欧米語と区別しているのは、それだけ日本語の語彙体系内に確かな位置を占めているからと思われる。〉P.178
 漢語と和語さえ区別できないのに、さらに近代中国語…。

おわりに より
〈日本語の「書き方」に関わって、共通の「ルール」がいくつか定められている。現在は平成三(一九九一)年に内閣告示された「外来語の表記」、昭和六一(一九八六)年に内閣告示された「現代仮名遣い」、平成二二(二〇一〇)年に内閣告示された「改訂常用漢字表」、昭和四八(一九七三)年に内閣告示された「送り仮名の付け方」、昭和二九(一九五四)年に内閣告示された「ローマ字のつづり方」によって、「書きことば」を書くにあたっての「書き方」が示されている。〉P.184
 忘備的に写しておく。
〈こうしたルールの下にある現代の日本語について、これまであって、今ないことを、一言でいえば、「漢語という語種」ということに尽きる。現代においては、今使っている語のどれが和語でどれが漢語か、という語種の感覚が著しくなくなってきている。平安期以降編まれた勅撰和歌集において原則的には漢語が使われないということを持ち出すまでもなく、過去の日本語においては、漢語は、漢語としての、言い換えれば「外来語」としての特徴を維持し続けていた。〉P.185
 ここは和歌革新運動や、和歌から短歌への転換とも大きく関わるところだ。この時代の人々は王朝風和歌を作る人だけでなく、和語と漢語の区別がついたのだ。ついた上で出来るだけ和歌に漢語を使わないようにしようとしていたのだ。今、漢語を避ける、というのとは全く次元が違う問題だったのだ。

岩波新書 2012.9. 本体700円+税

この記事が参加している募集

読書感想文