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『牧野植物園』渡辺松男(書肆侃侃房)

 第十歌集。2016年の作、400首を収める。しかも400首のうち73首は既発表で、残り327首は未発表とのこと。2022年6月発行だから、あと6年分の作品がまだあるということか。恐るべき多作さだ。この歌集は現実と幻想、正気と狂気のあわいを描き出し、他の追随を許さない独自の世界を作り出している。短歌で幻想の世界を描くならここまで来れるのだ、ということを感じさせてくれる。装幀毛利一枝。精密な植物画が奇想の短歌とよく合う。

まぶしかる四囲の秋桜(こすもす)われがもし鏡であらばしづかに狂れむ
 自分の四囲を取り囲むコスモスの花。光を反射するようにまぶしく光りながら揺れている。もしこの自分が鏡ならば、そのコスモスの光を受けて、自らも光りながら、輝きをやめることができないだろう。そうすれば静かに気が狂っていくしかない。コスモスに取り囲まれる鏡としての自己。絵的にも不思議な光景が浮かぶ。

閉ぢられてある鏡にて白鳥は漆黒の夜をわたりの途中
 一読、三面鏡を思った。あるいは手鏡が下に向けて置かれているのかも知れない。どちらにしても、人の目には触れることのない鏡。その鏡の中の漆黒の闇の中を、白鳥がわたりのために飛んでいる。鏡の奥の暗闇に浮かび上る白鳥の群れ。白鳥は鏡の奥へ奥へと飛んで行く。そして永遠にわたりの途中なのだ。

俄雨あれがわたしでありしよとべつのわたしが晴れておもひぬ
 俄雨が降っている。私はあの俄雨だった。そう思ったのは別の私。別の私は晴れているのだ。晴れている私が俄雨を見て、自分だったと認識する。おそらく自分は部屋の中にいる。俄雨を見た時に、そこに自己意識を重ねたのだ。

めがねにはめがねの空が青くあり死にてからゆくところの広さ
 めがねから見る空。その空は青く、めがねのレンズの形に切り取られている。その狭い視野を通って大きな青い空へと自分は通じて行く。そこは自分が死んでから行くところであり、限りなく広い。いったんめがねという小さな空に絞り込まれた心が、ふっと大空に解放されるような感覚を抱かせる歌。

われがわが耳道へ入る錯覚に鍾乳洞の入口にたつ
 鍾乳洞の入り口に立った時、自分が自分の耳道へ入るような錯覚を抱いた。錯覚としか言いようが無いが、自分の身体の中へ入っていくような感覚は大地と同化しているからだろうか。しかしそれも実際の鍾乳洞の入り口に立った実体験かどうかも分からない。想像の鍾乳洞かも知れないのだ。

鳥たちを色とおもひぬ色たちが放れたがつて落葉いろいろ
 鳥を色そのものと思う。鳥たちが木から放れようとする時に落葉が散っていくのだろう。それと重なるように鳥たちが木から飛び去って行く様子が、色が散って行く様子に見えてくる。鳥であり落葉である色。色たちが風に乗って降りてくる。

せいしんの隔離室にておもひにきまつしろさには際限がない
 読んでいてくらくらするような一首。精神の隔離室とはどこだろう。もしかしたら、作中主体の部屋そのものかも知れない。あるいは病室。その壁は真っ白なのだ。真っ白という色はどこまでも真っ白。際限が無い。主体は白さの中に囚われて白さの中に吸い込まれて行く。どこまでもどこまでも続く白さの中に、精神が取り込まれてしまうのだ。もしそれが自分の部屋だとしたら救いようが無いのではないか。

眼がありぬ 一時間ほどしづかにて散る竹の葉は石仏のうへ
 誰の眼だろう。もしかしたら誰のものでも無い、単に「眼」だけがあるのかも知れない。その眼は一時間ほど静かにしている。その間、竹の葉がずっと音も無く散っている。竹の葉が石仏の上に散りかかる。その間、ずっと「眼」はその様子を眺めているのだ。この初句にも冷静なままの狂気が込められていると思う。

向日葵が渦巻く街の中に来て街が渦巻く向日葵の中
 「ひまはりのアンダルシアはとほけれどとほけれどアンダルシアのひまはり 永井陽子」を思い出す。永井の静かな空想の歌に比べて、この歌では作中主体自体が街ごと向日葵の中に入ってしまっている。街の中で渦巻いていた向日葵の中に、街と主体がぐるぐると渦を巻きながら入ってしまうのだ。主観と客観が簡単に入れ替わる世界。それを納得させる向日葵の黄色。

ひとおもふあやふさのまま風に木の揺れてかなかな揺るるかなかな
 とても美しい歌。言葉も美しいし、調べも美しい。調べって何だと思ったらこの下句を読めば分かると思う。心を撫でられるようなリフレイン。しかも、微妙に言葉を変えることによって、リフレインに見えながら、意味が変わっている。「(風に)木が揺れてかなかなの声が聞こえる」「かなかなの声も揺れている」と揺れるものが変わっているのだ。さらにそれは上句の「ひとおもふあやふさ」を象徴的に表している。象徴であるが実景。揺れるかなかなの声が聞こえるような一首だ。

書肆侃侃房 2022.6. 2300円+税

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