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【読書】月の裏側(日本文化への視角) その7

出版情報

  • タイトル:月の裏側(日本文化への視角)

  • 著者:クロード・レヴィ=ストロース

  • 翻訳:川田順造

  • 出版社 ‏ : ‎ 中央公論新社 (2014/7/9)

  • 単行本 ‏ : ‎ 176ページ

著者略歴

著者レヴィ=ストロースは著名なフランスの文化人類学者で、代表的な著作は『悲しき熱帯』である。婚姻関係をはじめとする他グループとのやりとりには規則性(構造)がある、と提唱した。構造主義の第一人者でもある。残念なことに2009年に100歳でお亡くなりになっている。生まれたのは1908年。

文化人類学の神様の神業(かみわざ)

 本稿では、私が「ああ〜、構造主義の人ってそういう視点なんだ〜」って素人なりに思ったところ、疑問にお付き合いいただければと思う。

エジプトの物語と日本神話の類似性

 古事記にある天岩戸。ご存知の方が多いと思う。あらすじは - 太陽の女神アマテラスが弟神スサノオの乱暴狼藉を悲しんで天岩戸に隠れてしまう。太陽が出ないので、辺りは真っ暗になり、みな困り神様同士が相談した。そしてアメノウズメという神様が胸をはだけ腰紐を揺らして(性器を露出して)踊り始める。いわばストリップだ。神様たちはヤンヤと囃し立て、何事かとアマテラスが戸を開け、太陽の光が復活する - というものだ。
 著者はこの話はエジプトの大神オシリスの後継者選びの物語に似ているという。少し長いが引用しよう。

物語は、裁定の場に集まった神々が、大神オシリスの後継者を決めかねているところから始まる。オシリスの若い息子であるホルスは、彼の母親であるイシスに強く支持されている。もう一方はホルスの母方の叔父であるセトだ。裁定を司っている太陽神プレー・ハラフティーは、ホルスに好意的な大勢に反して、セト支持に傾いている。それゆえ彼は、猿神バハから聞かされた意見を不快に思う。心を傷つけられたプレー・ハラフティーは、館に引き籠り、日がな一日、悲しみを抱いて仰向けに寝そべっていた。かなり経ってから、彼の娘のハトホルが突然訪ねてきた。彼女は着ていたものを脱ぎ、性器を露わにしたこれを見て太陽神は笑い、起き上がって、裁定の席に戻った。

月の裏側 p110-p111

古事記とエジプトの物語の最大の類似点は「ある出来事があり、太陽神が悲しみに暮れる。太陽神は引きこもるが、女性が性器を見せ、太陽神が機嫌を直し、再び太陽が機能する」というあらすじだろう。
 また2つの神話は実は神話ではない、と著者はいう。

『古事記』とエジプトの物語は、神話ではない。名がわかっているか、いないかの違いはあっても、一人の作者が、神秘的な素材をそれぞれのやり方で作りかえた文学的創作だ。

月の裏側 p116

エジプト神話と日本神話の相違点

 それでは、相違点はどこか。大きなところは、この話が記述された時期だろう。古事記の成立は8世紀。エジプトの神話は紀元前20世紀より前。最初に書かれたものはさらに10世紀は遡るだろう、とも。少なくとも3千年弱は時間的な隔たりがある。
 もうひとつ大きな相違点は、物語が書かれた目的だ。

そして2つの作品は、著しく異なる、正反対と言ってもよい性格を持っている。一つは、超自然に彩られた叙事詩的物語であり、王朝の自己正当化に奉仕するためのものだ。もう一方の作品は、大衆を楽しませるために神々をあざ笑う、ユーモアに満ちたお話だ。

月の裏側 p116

古事記は『超自然に彩られた叙事詩的物語であり、王朝の自己正当化に奉仕するためのもの』であり、エジプトのものは『大衆を楽しませるために神々をあざ笑う、ユーモアに満ちたお話』なのだろう。古代エジプトの人々は「神様たちもおバカだねぇ。あはは」と憂さを晴らしていたのだろうか。現代の私たちが、たとえばセレブのゴシップに対してするように。

文化人類学の神様の視点

 たとえ、古事記とエジプトの物語で、あらすじがどんなに似ていようとも、どちらがどう影響を与えた、などと安易に議論を始めてはいけない、と著者はいう。

エジプトと日本の物語のあいだには、類似、交雑、対照関係、あるいは倒置などが漠然と認められる。そうしたことから、これらの伝承が接点を持ち、影響しあったと推測してよいだろうか。それらを注意深く考察すれば、むしろ慎重論に傾かざるを得ない。…時間的、空間的に大きく隔たった作品のあいだに、系譜上のつながりや借用があったのではないかと、あらかじめ想定しないように心すべきだ

月の裏側 p115-p116

そして文化人類学者の結論として、古事記とエジプトの物語のあいだに系譜関係を見出すことはできない、と述べている。

とはいえ、あちこちで、テーマやモチーフが不思議に呼応し合っているのは確かだ。2つの作品はおそらく、古代神話の同じ層に属しているのであろう。かと言って、2つの物語が表現しているもののあいだに系譜関係を打ち立てることはまったくできない。

月の裏側 116

ここで著者は下のような面白い例をあげている。この考え方は分岐学に基づくものなのだそうだ。

原初的特徴が同じだからといって、2つの種が近縁関係にあると結論づけることはできない。5本の指を持つからヒトがカメやサンショウウオと近いということはできない。これはおそらく陸生の脊椎動物すべてに共通の原初的な特徴の1つだったのだろう。それを保持した種もあれば、失った種もあった。例えば、ウマは指が1本だが、ヒトはいかなる両生類や爬虫類よりもウマに近いのだ。

月の裏側 p116

それでは神話の原初的特徴とはどういうものだろうか。

原初的特徴は、神話にあっては、形式における本質を思考の中で展開することにあるといえるのではないだろうか。我々が取り上げている例では、神話的思考は、太陽の東から西へという縦断方向の展開が、水の流れ、あるいは海の入江を一方の岸から他方へ横切る、渡し守によって成し遂げられる横断的思考を促していると言うだけで十分であろう。

月の裏側 p116-p117

我らが古事記の例で言えば、アマテラスの岩戸隠れの後に、因幡の白兎の話が来る、というわけである。(エジプトの物語にも相当する川を渡る話がある)。さらに著者によれば、古事記の著者は、太陽の運行の中断と回復のエピソードには水を横断するエピソードが必要だ、と知っていて手持ちのエピソードの中から使えるもの(ここでは因幡の白兎)を使った、と言うのである。

『古事記』の作者は横断軸における移動のありさまが、変換の一覧表のなかにその位置を占めるべきことを、はっきりと認識していた。この項目を埋めるべく、作者は手持ちの素材を使った。動物の短い話だが、神話的思考を操作する見事なやりくり(ブリコラージュ)の例だ。詩人であるよりは学者だった『日本書紀』の編者たちは、同じ必要を感じなかったか、もしくは「因幡の兎」に対して批判的な態度をとった。そして彼らはこの挿話を無視したか、あるいは意図的に排除した。

月の裏側 p117-p118

ん?論理の流れが逆転の発想で行われている印象があり、すぐには肯首できないが、著者によれば古事記や日本書紀の編纂では、そのようなパズルのピースのはめ込みのような作業が行われたはずだ、と言うのである。
 そして著者はウィキによれば「世界各地の呪術神話における思考の特徴的なパターンも『ブリコラージュ』と呼んだ」とのこと。
 古事記と日本書紀の編纂によって、それまで口伝えで伝承されてきた神話と歴史が(2つの区別は同時はなかった)、文字へと、書き言葉へと置き換えられていった。だからすごく記憶力の良い人が丸暗記のように覚えていたものを、つらつらと書き言葉へと、紙の上の文字という記号へと置き換えられていった、と思っていた。まるで音声がICレコーダー上のイチ・ゼロの電荷データへと変換されるかのように。しかし、どうやらそう単純なものではない、とレヴィ=ストロースは言っているようなのだ。
 んんん?それでは、人の記憶はどのようなものであって、神話というか歴史はどのようなものだと認識されていたというのだろうか。
 書き言葉への変換、という不思議も相まって、ヒトという種への興味がますます尽きなくなる。


引用内、引用外に関わらず、太字、並字の区別は、本稿作者がつけました。
文中数字については、引用内、引用外に関わらず、漢数字、ローマ数字は、その時々で読みやすいと判断した方を本稿作者の判断で使用しています。

おまけ:さらに見識を広げたり知識を深めたい方のために

ちょっと検索して気持ちに引っかかったものを載せてみます。
読んでいない本も掲載していますが、面白そうだったので、ご参考までに。


まんが日本昔ばなし』のような味わいのある口語体。こう言ってわかる人は昭和の人、か。朗読会などあれば、行ってみたいです。

古事記は読みやすそうなマンガがたくさんあります。これは絵がかわゆい。

これは劇画調。著者さんのライフワークだそうで、全7巻の長編です。

小説のためのフィールド調査をまとめたもののようです。図書館で借りることができたので、近々noteでご報告することができれば。

ウィキによれば「フランス文化人類学者・クロード・レヴィ=ストロースは、著書 『野生の思考』(1962年)などで、世界各地に見られる、端切れや余り物を使って、その本来の用途とは関係なく、当面の必要性に役立つ道具を作ることを紹介し、『ブリコラージュ』と呼んだ」そうだ。

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