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【書評】『新・ラグジュアリー 文化が生み出す経済 10の講義』安西洋之&中野香織(著)

書評・読書メモ

本の概要

『新・ラグジュアリー 文化が生み出す経済 10の講義』

著者は、安西洋之さんと中野香織さん。

概要をAmazonから抜粋します。

これから2030年にかけて、世界・経済・ビジネスなどを考える上で重要になるであろう考え方の一つとして、本書で取り上げるのが「ラグジュアリー」です。

▼ いま人を動かすのは、「テクノロジー」ではなく「人文知」だ。

(略)
これまでのモノづくり・サービスづくりや顧客体験は、ウェブ技術をはじめとするコンピュータサイエンス、あるいは機械・材料・加工技術のような「テクノロジー」が引っ張ってきました。
ただ、先進国を中心に技術や市場が成熟をみせる中で、今後、人々の心を動かすような「本当にほしいもの」は、テクノロジーが基礎にありつつも、歴史や文学、地理、哲学、倫理など「人文的な知識」がより主導しながらつくっていく時代になるのです。

「文化の創造が結果的に利益の源泉となっていく」という新しい考え方と、クチネリをはじめとした実践の動きを、「旧来のラグジュアリーとの対比」「意味の創造」「教育」「文化盗用」「サステナビリティ」など多様な切り口から一冊にまとめるのが本書。


読書メモの整理

以下、私がハイライトを引いた点を整理します。

イケてないものがなくなった時代に求められるもの

現代は、飽和社会です。
レストランでまずい店に当たることもほとんどなく、IKEAに行けばあらゆるものが手に入ってしまう。

これは、先人たちが長い年月をかけて底上げされてきた環境に生まれたからです。均一化されたプロダクトが行きわたり、確たる不満はないのです。

ところが、著者は、そんな時代における課題を提示します。

感情が高ぶる、愛してやまないモノやコトとの出逢いの機会が失われつつあることに気づくと、そこはかとなく焦りや寂しさを感じる。欲しいのは、行く先に灯を見つけ出そうとする能動的な願い、自らを再起動する力を実感することだ、と。

なるほど、「能動的な願い」こそが、今の時代のラグジュアリー求められていることなのです。

ラグジュアリーの歴史

人間は大昔からラグジュアリーを必要とし、ラグジュアリーが時代を導き、文化を形成してきた、これは歴史が証明することです。

ところが、時代とともに「ラグジュアリー」の意味は常に変わってきていると言います。

古代より、王権や宗教的権力を示すためのラグジュアリーがありました。
クレオパトラの宝石や三種の神器がそうでしょう。

王侯・貴族が社会の頂点にあった中世・ルネサンス時代には、ラグジュアリーは経済的余剰の誇示であり、社会階級の差異化の手段でありました。

本書より

宮廷における愛妾経済もラグジュアリーを発展させていきます。

産業革命後は、新興ブルジョワジーの権威付けのためのラグジュアリーが生まれます。
単にきらびらかさを競うのではなくシックな紳士服が流行するなど、ラグジュアリーが多様化してくるのです。

20世紀になると、ラグジュアリーの意味に変化が生まれます。

「ラグジュアリーの反対は、’貧困’ではなく’下品’」というココ・シャネルはイノベーションを起こしました。金融資産とエレガンスが別の問題になったのです。

20世紀後半からは、欧州文化への憧れや自慢の対象として、ラグジュアリーは存在感を出してくる一方、資本家が競ってラグジュアリーブランドの売買劇を繰り返し、ラグジュアリー市場は、いくつかの巨大コングロマリットが牛耳るマネーゲームの世界に変貌を遂げてしまいます。

その中で、21世紀も20年以上たった現在、ラグジュアリーにはさらなる変化が見えています。より公平で透明性の高いラグジュアリーの実現を目指しているのです。

従来のエリート的な「排他」から民主的な「包摂」へ、新しい時代に適合した世界の可視化がラグジュアリー領域に期待されています。


ラグジュアリーの未来

「排他性」「名声」「階級を与える力」、これらは富中心の格差がある社会でこそ成り立っていた知覚です。

これからは、「違い」の中に「上」「下」の構造がなくなり、透明性が高まり、個々の人間らしさが尊重される社会になっていきます。

その中で、豊かさや魅力的な美として目に映るのは、フェアで開かれた包摂性があり、人間の尊厳や内発的な感情が大切にされた結果として生まれる創造性であるのです。

本の中ではその例として、多くのファッションブランドが出てきます。

ラグジュアリーの文化的な幅

同じ「Luxury」という言葉でも、文化圏によって捉え方が異なります。

例えば、イタリアのラグジュアリーは「手仕事の強調」から始まります。誰もが接することができる「日々のラグジュアリー」です。例えば、華やかな生活を演出するものではなく、日常生活を心地よく過ごす雑貨などに焦点が当てられているといいます。

貴族性がより表に出たフランスと比較すると分かりやすかもしれません。

(これは私自身もイタリアで生活をする中で得た感覚と同じ。彼らは人に見せるためにグッチを持つのではない。目に入ったり身につけたりするものとして自分が心地良いと感じるからお気に入りのブランドなのだ。)

このモデルがブルネロ・クチネリ。

※わお。私が敬愛する方がこちらの本でもキーモデルでした。彼の本はとても良い本なのでぜひ。


ちなみに、「サステナビリティ」についても文化的差異があるといいます。スカンジナビアのサステナビリティは地球環境の保護を第一目的に、イタリアでは風景などの美のために、アメリカではビジネスのために、という例が挙げられていました。

科学と心の融合の時代における、人文学

テクノロジーが発達するほど人間らしさについての問いに向き合わざるを得なくなります。そこで肩身を狭くしてきた人文学が息を吹き返そうとしているといいます。

人文学の底力とは、何か要約可能な知識にあるのではなく、「プロセス」をたどることそのものにあるのです。

実生活に役に立たないであろう古典を読解していく過程で、複雑な人間性が時代に応じてどのように受容されてきたかを理解し、自分が属している文化および異文化のコンテクストを客観的に俯瞰する視点を獲得していきます。

こうしたプロセスは、無意識のうちにとらわれていた構造や思い込みからの開放を伴います。精神的自由を獲得する行為の積み重ねです。

いずれの場合にせよ、ある程度の発酵の時間、「心の旅」が必要です。「プロセス」そのものに意味があるのです。そのようにして内側から獲得されたゴールには、その人だけのユニークネスが生まれ、それはラグジュアリーに必須の「出どころの正しさ」であり、生涯にわたり多くの場面で応用可能な、創造の源となるものです。

私見

ミレニアム世代と言われる私達は、生まれた時から飽和した環境に囲まれ、均一的で閉塞感のある社会への警鐘を聞きながら育った一方で、そうした成熟社会が生む余裕の中で、少しずつ個性が認められる時代で育っているとも感じます。

文系なら弁護士を、理系なら医者を目指せというのは時代遅れという時代に大学生になり、就活の民主化が進んで自らのユニークネスを追求できる機会が増える環境下で社会人になり始めました。

そんな中で私は、約4年間の社会人生活の後、大学院に戻ってまさに今、人文学を学んでいるわけですが、歴史学を深めるほどに今の社会を見る新しい視点を得て、精神的自由を獲得している強い感覚があります。

歴史は広いです。その中で時間をかけて自らの分野を深めることは、世界に1人のユニークネスを育むことだと疑いなく思いますし、それが創造の源として社会に還元されるものだと信じています。

こんなこと言っているとコンサル時代の上司は「またそんな理想論を言って。現実の世界では、、」と言われそうですが(笑)、それは客観的に大いに正しいのですが、でも、自分のユニークネスを育む時間として「心の旅」が必要なように、社会が変わるのにも「発酵時間」が必要です。

そして、その発酵のイースト酵母となるのは、きっと私達なのだと思っています。

この本を読んでとても背中を押されたのは、人文知の貢献性を検証し、そうしたイーストとしての可能性を提示されたように思うからです。

だけど、天然酵母は扱いが難しいのです。発酵を焦ると膨らみません。パネットーネのように、腐らずに熟成させられるように、時間をかけて、丁寧に眠れる才能を育てなければなりません。

20年後は2042年、私達は47歳。ほわほわで香り高い、社会を幸せに包むパネットーネが出来ますように。


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