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広場で飲む1杯は格別で、世界は美しい時間で溢れている

2024年3月、シエナ、世界一美しい広場と言われるカンポ広場にて。

訪れたばかりの夜が広場を淡く包む。13世紀からのレンガ造りの宮殿が夜空に浮かび上がり、前の通りでは人々が笑顔で挨拶を交わし、各々が帰途についていく。今晩は何を食べるのだろう。

私たちは一等席とも言える、宮殿を目の前に見える小テーブルに席を見つけ、ゆっくりと杯を傾け、目を細める。私は、トスカーナの誇るボルゲリのワインを、少し優雅な気分で。

広場で飲む一杯には、格別な贅沢がある。

吹き抜ける風を感じ、思い思いに時を過ごす人々を眺め、時に隣の人と目を合わせる。

何をするでもなく、ボーッとする時間。

そんな広場の一杯の尊さに価値を見出すのは、何も私だけではないようで、イタリアには、どの町のどの広場にも「広場価格」なるものがある。しかし、私は、これがどうも理解できなくて、なぜ人々は同じ飲み物をわざわざ高いお金を払って広場で飲むのか、と思っていた。

ところが、今、ボルゲリを一口飲んでふぅと息を吐いた瞬間、昔、友人が興奮して広場で飲んだビールの写真を見せてきた情景が鮮明に思い出された。

時は遡ること6年前、私がイタリアに2度目に来た夏だった。今では名前も思い出せない、友人の紹介後にSNS経由で知り合った、歳は8つ上くらいのポンペイ出身の男の子で、随分と使い古された車でナポリ、ポンペイと案内してくれた。

3日目くらいに、みんなでカプリ島に行くことになった。ソレントからフェリーに乗って、真っ青な海を渡った。日本人観光客にとっては知られた島であっても、地元民にとっては憧れの島で、自分の町から数十キロしか離れていないにも関わらず、人生で一度も行ったことがない人が多く、彼もその例外ではなかった。

その彼は、島に着いた直後、海に入ったり丘から景色が見てみようという私たちを後に、一人「俺はアナカプリに行く」と言って去っていった。

日が暮れはじめた頃、帰りのフェリーの時間に港で再会すると、「もう最高だったよ。アナカプリ中心の広場のバールでビールを飲んだんだ」と、連写された広場の床とグラスに注がれた瓶ビールの写真をたくさん見せてくれた。ビールが1杯10€だったと聞いて、ひっくり返りかけた。社会人1年目の私は、スーパーなら1€で同じビールが買えるのに、広場で飲むビールはそんなに特別なのかと、首を傾げたのであった。

6年後、隣で気持ちよさそうにネグローニを飲む人に、目を細めてその話をすると、ふふっといつもの笑いが返ってきた。空気に触れて開いてきた私のボルゲリは、少し丸味を帯びていて、心地よかった。

次の日の帰り際、歩き疲れた私たちは、自然と広場に戻り、宮殿の前にあるバールの2階のテラス席に腰を下ろした。アイリッシュ・パブで、ちょうど聖パトリックの日で緑に染まった店はしかし、まだ時間が早いようで人が少なく、ライブのギタリストは音合わせをしていた。

今朝は一寸先も見えないほどに広場を包んでいた霧も、太陽の光に暖められて消え去り、澄んだ空の夕日が目の前の宮殿を照らす。広場には人々の楽しそうな声がこだまする。

大きな黒と白のビールのジョッキを合わせてから、どのくらい時間が経っただろうか。ゆっくりと空の色が変わりかけた時、隣でポツリと「とても美しいモーメントだね」と聞こえ、重ねられた手がさらにぎゅっと握られた瞬間、後ろからStand by youが流れてきて、決して上手くはないそのライブ音楽に、涙がホロホロと溢れてきた。私は一人ではないのだと。私を幸せにしてくれる人を、幸せにできるのだと。だから、人生はこんなに美しいのだと。

'Cause I'm gonna stand by you
Even if we're breaking down
We can find a way to break through
Even if we can't find heaven
I'll walk through hell with you
Love, you're not alone
'Cause I'm gonna stand by you
- Rachel Platten "Stand By You"

広場で飲む1杯は格別で、世界は美しい時間で溢れている。

そんな広場での1杯の美しさに気づき始めたのは、ほんの最近のこと。


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