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差別と米国

木曜日よりSNS上が真っ黒に覆われている、米国人の友人たちの黒人差別、人種差別に対する怒りである。ここ数日の米国での激しいデモや怒りは報道の通りである。

米国大学院で過ごした日々は、苦労と涙と苦悩、そして差別に満ち溢れていた。

それでも、素晴らしかったと思えるのは、その過酷な辛さにともに立ち向かうことができた留学生仲間の存在と、心に寄り添い前向きに進む気持ちにさせてくれた多くの米国人学生と教授に出会ったからである。彼らとの友情は続いているが、あのときのお返しは一生かかっても全然できない、だから日本で困っている留学生や外国人がいたら少しでも力になりたいと思っている。自分が逆の立場だったら、あそこまでできたかな、と思うような人々だった。

米国の人種差別は複雑で複雑で理解しきれていないのだが、住んでわかる独特の雰囲気や問題に直面することがある。

差別や不平等の学問を学びにいったわけではないのに教科の全て、ディスカッションの全てに「人種」が出てきて、人種の議論に終始することもしょっちゅうで、またか。。。と留学生とグループしては戸惑うことも正直あったのだけれど、それだけ根強く根深くあることを経験した。人種が違うだけで医師が治療方法で差別したりなんて話も聞いて衝撃だった。

今でも親しいアフリカ系米国人でムスリムの友人は正義感が強く人種だけでないあらゆる格差に怒っていた。そしてスカーフをしているので「あなたどこ出身?」て言われるのにうんざりだといっていた。遠く彼方の祖先はソマリアから来たけれどわたしはここの出身よ、アメリカ人よと。

そして、有色人種である日本人の私が経験した差別は、言葉や態度ではっきりと表れるものではなかった。なんとなく後回しにされたり、よい指導や機会が得られなかったり。あと成績評価が明らかおかしいことあったな。だからこそ、よりいっそう目に見えない魔物のような、なんだか胸がすっきりしないなにかと常に戦っている感じがあった。もちろん、英語が完璧でない、弱い立場の留学生だったから、かもしれない。けれど、「ダイバーシティを尊重するわ」とするマイノリティの先生に限って、「あれあれ?もしかして?」と感じることもあった。それは激しい競争社会をのし上がってきた先生のパーソナリティだったともいえるかもしれないが、こちらにはじんわりと負のうねりがやってくる。

そういえば、イチローが「野球をやめる」って夜中に会見したとき、たまたま生放送を見ていた。そして、「あぁこの人も、こんなにすごいのにマイノリティとして苦労したんだ」てのが、伝わってきたことが、彼が野球をやめること以上に驚きだった。「おなかすいたー」連呼と共に思い出す。

米国の分断、どこへ向かうのか。オバマ大統領の人間愛あふれるスピーチを見て少し希望を取り戻す。