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信じること、信じられるということ

その人がその人であることは、壊れて行く自由も含めてこんなにも美しい、人に決めてもらえることなんて何一つ本当じゃないんだな、としみじみ光るように生きる彼女を見ていて私はよく思った。

『アムリタ』:吉本ばなな(2002)

ついさっき、触れた言葉だ。金色の光が筋となって届いた気がした。

読み始めた『アムリタ』の上巻1/3あたりを越え、私は一度本を閉じた。音楽にも、本にも、映画にも、背に心地よい温度の手が添えられた時のような、救いの表現を見つける。作り手の信じるもの(信念、というより柔らかいなにか)が込められている、と勝手に思っている。

「救い」と表したけれど、腑に落ちるという感覚が近いのかもしれない。導きを得ることももちろんあるが、言葉にできていなかっただけで、きっとこれまでも自分の中に眠っていた実感なのだ。それを誰かが伝わるように形に起こしてくれて、輪郭を認識する。そっかそうよねそうなんだよね、と安心できる感覚こそ「救い」なのかもしれない。

新しく棚を買ったので、すでにある本棚の中身を全て外に出して整理をした。茶色い小棚を幾つか重ねるようにして使っていて、小ぶりだからか本の数がそれほど目立たなかった。ソファと床に積み続け、驚く。こんなにあったのか、よく収まっていたな。未読もしくは読み切っていない本が2割ほど、あとは濃度の差はあれど私の血肉に変わったものたちだ。元気がない時には活字が追えない。そういうタイミングも何度か迎えたけれど、「読める」時期はまた必ず巡ってくる。いつのまにかこの上なく愛おしい本棚が出来上がってしまった。私が一体どんな人間なのか、透けて見えてしまいそうな気がする。


自分の周りにいてくれる人たちのことを私なりに信じているし、とても大切に思っているし、心底感謝している。その上で、人は裏切るものだと思っている。義に背く、みたいなことばかりを指しているわけでも、疑いの目を日々周囲に向けているということでもなく、つまり他人は思うようにはならないという意味だ。私に私の人生があるように、人にはそれぞれにその人の人生がある。だから、「裏切られてしまった」と感じられるようなことにも出会う。それぞれの選択だ、仕方がないことなのだ。

心を託す相手は目の前にいる人間ばかりじゃなくてもいいのだとふと思う。作り手が投じた想いは、時間や物理を超えても私の心に一致する。包まれるような心地よさで「信じられる」と思える言葉がある。それを書いた人がいる。あぁ世界は有限で無限に広い、なんて大袈裟なことを一人暮らしの部屋で呟いている。土曜の夜は、こんなことが幸せなのである。

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