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わからないことを面白がる、という作品の味わい方【映画『走れ、絶望に追いつかれない速さで』】

※本noteでは映画『走れ、絶望に追いつかれない速さで』について書いていますが、ほぼネタバレはありません。

あらすじ
青春時代を共有した親友・薫の死を受け入れられないでいる漣(太賀)。描き遺された絵には薫の中学時代の同級生「斉木環奈」の姿があった。薫にとって大切な存在であり続けた彼女に薫の死を知らせるべく漣は単身、彼女の元へ向かう決意をする…。(公式サイトより)

この映画は、はっきり言ってわかりにくい。わかりにくいけれど、だからといってその一言でこの映画を終わらせてほしくない、そう思い、「わかりにくい」と言われてしまう作品を観るおもしろさについて私なりに考えたことを書いてみたいと思う。内容についてはほぼネタバレなし。
映画や小説の余白や余韻が好きな人にはもちろんこの作品はおすすめだけれど、「わかりにくい」作品があまり好きではない人にも、このレビューを読んで興味を持ってもらえたら嬉しく思う。

本作が「わかりにくい」と思われてしまうひとつの要因としては、なんといっても台詞が少ない、ということがある。全編を通して主人公のロードムービー調であるが、主に一人で行動しているために対話が少ないのだ。物語において、登場人物たちの会話からその状況や関係性を推察するのは鑑賞者に必要とされることであるが、その会話自体が少ないことに加え、そういったケースによくある主人公のモノローグもないため、映像以外に作品側が物語を補完してくれることがない。自然、鑑賞者は映像の中からわからないことの答えを探そうとする。と、一口に言ってしまうのは少し偏っているかもしれない。YouTubeやTikTokなど、「見ればすぐにおもしろい」動画コンテンツに慣れてしまった世代にとって、じっくりと腰を据えて画面の中で起こる出来事を静かに追いかけ考察することは、あまり馴染みがないだろうことは想像に難くない。Filmarksのレビューなどを見てもそんな印象を受けた。

では、「わかりにくい」というのはどういうことなのか。簡単に言えば「感情移入できない」ということだろう。この人物は何故こんな行動をとったのか。何故あんなことを言ったのか。言葉によるヒントが少ないために、人物への理解が進まないまま物語は進んでいく。観客はどんどん置いてきぼりを食らう。だが果たして、「わかりやすい」は正義だろうか。物語のセオリーとしては、人物に共感したり反発したり、感情移入してもらってこそ、という気はする。だが、そのために「わかりやすい」必要が、本当にあるのか。鑑賞者の頭や心を通さずとも、目に映ったものから直接的に感情に訴えかける、というのはエンターテインメントを観客に届ける上で大変に有効であるが、そのファーストインプレッションで終わってしまうのは、あまりにも淋しいかもしれない、と私は思う。特にこの作品のような「わかりにくい」ものを観たあとには、特にそう思う。
もちろんこれは好みの問題が多分にある。ファーストインプレッションで衝撃を受けたり感動したり、鑑賞後にスッキリしたり、そういう楽しみ方もあるし、私もそんな作品を観て満足することはある。だがそうでない作品が、ただ「わかりにくい」と言って敬遠されてしまうのは、非常にもったいないなと思うのだ。

余計な説明は野暮だという蛇足を避ける美学はあるにしても、作り手にとって、どの程度受け取り手に委ねるか、というのは、永遠の課題なんじゃないかと思う。伝えたいことが伝わらないかもしれない怖さ。相反して説明しすぎることへの嫌悪。その狭間で、きっと作り手は常に葛藤する。
「この映画は文芸作品だ」と書いている人がいた。なるほど、映画というのはエンタメにカテゴライズしがちだが、これだけ読み解きが必要な映画というのは、文芸作品といってもいいかもしれない。

この作品を撮った中川龍太郎監督は、きっと観客を信じている。画面に映し出されたものだけでなく、その奥にあるものが伝わることを信じている。恐らく「わからなくていい」なんてこれっぽっちも思っていないはずだ。何故なら私自身、一度目の鑑賞での「わからない」から、二度目の鑑賞で「そうか」というブレイクスルーがあったから。
私は一度目の鑑賞のときにグッと心が動いたシーンが何か所かあり、そのファーストインプレッションだけでも映画を楽しむには良かったのかもしれないが、それは何故だったのか、というところが気になったのでもう一度観た。すると、何気ないひとつひとつの表情や台詞、行動が、伏線になっていると気が付いた。あらゆることが物語のテーマを示唆しているようだった。例えば美しい朝焼け。ピンク色の朝焼けが、劇中何度か映し出される。ここは、という大事なシーンばかりである。朝焼けの中を飛ぶ鳥さえも、テーマを物語る象徴的なアイコンだったと感じられる。映像と物語に丁寧に寄り添えば、「わかりにくい」の先は自ずから見えてくるのだと思った。

しかしこんなに込み入った方法で伝えようとする姿勢を取りながら、同時にこの映画は「わからない」を肯定もしている。親友の死の真相を追う主人公の漣(太賀)は、全編を通して感情を抑えた表情が多いのだが、何度か抱えていた感情が溢れてしまうシーンもある。そこにあるのは、わからないことをわかろうとして、でも結局どこへも辿り着けない、ということのままならなさだ。わからないまま、それでもそこに見出す希望のようなもの。わからないまま生きていくということ。

タイトルの「走れ、絶望に追いつかれない速さで」という言葉については劇中で言及があるが、私はそこでも「ままならなさ」や「意味を求めることの虚しさ」を感じた。この言葉はつまり、四の五の言ってないで「生きろ」ということなんだと思った。

って、ここまで書いておいて結局また意味を求めている私は滑稽だなぁ、なんて内心苦笑しつつも、こうして考察してみると、最初に観たときの混沌とした感情がクリアになって新たな発見もあり、ファーストインプレッションでの「感動」とはまた違った味わいがあることに気が付く。普段は「考察なんて面倒なことしない、だからわかりにくい映画は苦手」という人も、ここまで読んでみてもし何かひっかかるところがあれば、試しに一度そんな楽しみ方をしてみてほしい。


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子供の就寝後にリビングで書くことの多い私ですが、本当はカフェなんかに籠って美味しいコーヒーを飲みながら執筆したいのです。いただいたサポートは、そんなときのカフェ代にさせていただきます。粛々と書く…!