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ミッドライフクライシスは文学を読んで乗り越える | 中年危機(河合隼雄)

中年の危機(ミッドライフクライシス)は、30歳以上になると誰しもが経験する不安や鬱などです。男女や社会的地位なども問いません。
以前、キアヌ・リーブスが公園で一人ボケーっとしたりするような姿が報道されました。これも中年の危機と言われている症状です。
自分の人生はこれで良かったのか……? 若い頃であれば、いくらでも軌道修正が可能です。ですが、中年に差し掛かると、人生のラストが見えてきています。おまけに身体の故障も出てくる時期です。
このどうしようものない現実から逃れる特効薬はありません。

本著は、臨床心理学者の河合隼雄さんが様々な文学作品から、中年の危機を独自の解釈ですくい取った論考です。

■内容
最も意気盛んな安定期に見えて、中年ほど心の危機をはらんだ季節はない――。
心理療法の大家が、夏目漱石、大江健三郎、佐藤愛子、山田太一などの日本文学の名作12編を読み解き、中年の心の深層をさぐる。
本書に登場する小説の登場人物たちは、職場での自らの立ち位置、配偶者の浮気、子どもの教育、老いへの不安など、ありふれているようで本人にとっては重大いな問題に直面し、戸惑い、やがて人生の大切な転換点を体験する。
読者にその問題が降りかかってきたとき、どう立ち向かえばよいか。
著者ならではの「中年論」。

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文豪たちは中年の危機について、どう表現してきたのでしょうか?
河合さんが書かれた文章の中から印象的な箇所を引用しならが、ご紹介いたします。

①人生の四季 夏目漱石『門』

寒い冬も耐えていると春が来る。そして、やがて夏の盛りを迎えるのだ。というように順序立てて、自分をつくりあげてゆくのが、人生の前半の仕事である。しかし、後半に向かってゆくときは、「春来りなば、冬遠からじ」なのだ。そこでは自分の知っている「自分」を超えて、「父母未生以前本来の面目」が動きはじめるのだ。

中年は冬=死に向かっていくターニングポイント。誰しもが憂鬱になるのは仕方がないと思います。しかし、筆者は「門の下に立ち竦んで、何とかならぬものかといろいろやっていると、ジワジワと明るみが見えてくるのだ」とも説きます。
中年の時期は、暗い気持ちになりがちかもしれません。でも、ジタバタしているうちに光明が見えてくるはずです。

②四十の惑い 山田太一『異人たちとの夏』

人生は処女峰に登るようなものだから、道に迷って、尾根から少し足を踏み外してしたりもするだろう。右に入り込んだり、左に落ち込んだり、右を見たりして歩き続けるのが中年であるといえるし、惑うことにも深い意味があると思われるのである。

『異人たちとの夏』は名脚本家・山田太一さんの手による小説です。大林宣彦監督によって映画化もされました。
異界の人たち出逢いによって主人公は再び歩き出します。生きているからこそ迷うのです。いや、迷うから生きているのかもしれません。いずれにせよ、生きるとはそれだけで価値があることです。

③入り口に立つ 広津和郎『神経病時代』

「すっきりとした解決」というのは誰しも望むものであるが、中年の「解決」はそんなものではなく、そこに新しい課題が上乗せされ、それに向かっていかなくては、という形の「解決」になることが多いのである。

これは本当にその通りですね。『神経病時代』のラストで、恐ろしい絶望と苦しさを主人公は味わいます。しかし、粛々と対応していくしかありません。人生は理想ではないのです。現実です。リアルに考え、行動してこそ未来が切り開けるのだと思います。

④心の傷を癒す 大江健三郎『人生の親戚』

重要なことは、物語が終わったと思うころに「ソレ」がまたあらたな素材――理解をするのに困難をきたす素材――をつぎつぎと提出してくる、ということではなかろうか。

「ソレ」とは、「私」にも似た意味ですが、「私」がやったことではなく、「ソレ」がやったことといった、ちょっと自分を突き放している表現です。人間の業みたいな感じでしょうかね。
「ソレ」からは、誰しもが逃れられません。ただ、筆者は「自分の祈りを深める」ことはできると説きます。どうしようもない人間の業は、うまく人生に還元させていくのが良いのでしょう。

⑤砂の眼 安倍公房『砂の女』

毎日毎日、同じことの繰り返しでつまらないと思っている人でも、実はそれこそ、最も「前衛」的な生き方であり、社会の最前線で戦っているのだ、と考えることもできるわけである。

価値のある仕事であっても、毎日砂掻きをやっているのと変わりないのかもしれません。「隣の芝生は青く見える」のは正しい真実でしょう。しかし、実際に隣に移ったら、元いた場所が「青く見える」こともあります。どこかの時点で、達観して生きて行くのも人生にとって必要だと思います。

⑥エロスの行方 円地文子『妖』

多くの人が、エロスの対象として人間以外のものを選ぶことによって、何とかバランスをとっている。そこには各人の工夫があり、それはそれで結構ではあるが、それについて自覚しておくことは必要である。

『妖』の中では、人ではなく「骨董」や「坂」にエロスの対象を求める人物が出てきます。ただ、これはやはり人の代替品に過ぎません。趣味や仕事に没頭していたとしても、不意に「人」が心の中に入ってくることがあります。青年期はもちろん、中年期になっても同じです。人間はいくら歳を重ねても、そのような存在だとの認識をしておきべきでしょうね。

⑦男性のエロス 中村真一郎『恋の泉』

自我が大切といっても、それをいつもいつも中心に据えていては生きることの意味が表層的になりすぎる。そもそもそれでは、死ということの位置づけができなくなる。死によって自我が消滅してしまうのだったら、生きていることにどれだけの価値があるのか。

死によって無に帰すのは、あらゆる人類の宿命です。しかし、著者は「魂という超個の存在に触れるひとつの道としてエロスがある」と説きます。とはいえ、「エロスだけが独り歩きすると『事件』になる」とも語られています。欲情のまま行動しても、そこには動物的な出来事しかありません。自我と魂の葛藤があればこそ、真の意味で生きている人間になるのだと思います。

⑧二つの太陽 佐藤愛子『凪の光景』

自分にも「青春」とやらがあってもいいのではないか、自分も「自立」を求めて生きるべきではないかと思えてくる。それは、昇る太陽のイメージによって表すのがふさわしいものである。しかし一方では、自分は死の方向に向かってだんだんと歩をすすめているのも事実である。それは落日のイメージによって表現される。とすると、心の中に二つの太陽が存在することになる。

青春時代に燃え盛る太陽と、老年期に昇る太陽。後者の場合は、社会的な地位も確立されているので厄介です。太陽は情熱とも置き換えられるかと思いますが、コントロールするのは困難です。
『凪の光景』の主人公も悩み抜いた末に、「結論」を出します。凡庸と言ってもいいかもしれません。ですが、そこに至るまでの葛藤が、人を成長させていきます。

⑨母なる遊女 谷崎潤一郎『蘆刈』

中年は二つの私を必要とする。一般社会に向けて立つ私というものは、社会的な関係で部長とか、いろいろ名がついている。しかし、後シテのような姿がその内部に生きていてこそ、意味があるのではないか。「実は私は」とか「実は私の魂は」として示せる姿を明確に把握することが必要である。

社会的な肩書や年収は比較しやすく、現在の自分の「立ち位置」を図るには便利なツールでしょう。けれども、それゆえに足元が弱いです。何かあったら、急に不安定になります。人生は多層的であることを知っておくべきです。

⑩ワイルドネス 本間洋平『家族ゲーム』

簡単に予測したりコントロールしたりできないもの、それがワイルドネスの特徴である。それを自分の子どもたちのなかに認め、尊重すること、これが中年の親に与えられた課題なのである。そのことはすなわち、自分自身のなかのワイルドネスにもつながることになるのだ。

映画も名作と知られる『家族ゲーム』は、暴力的な家庭教師がやってきて、一家が振り回されます。そこで家族の様々な一面が浮き上がりますが、親世代は子供に対する責任を負っています。子供を一人の人間としてきちんと接することが大切です。親と子は合わせ鏡なのです。

⑪夫婦の転生 志賀直哉『転生』

長い夫婦関係を本当に意味あるものとし、真の「関係」を打ち立ててゆくためには、夫婦は何度か死の体験をし、転生してゆくことが必要なのである。

引用部分はなかなか極端ですが、それが夫婦というものなのでしょね。赤の他人だった二人が家族になる。だからこそ、強烈な因果が発生し分かち難いものになるのかもしれません。例え「死」という絶対的な別れがあったとしてもです。

⑫自己実現の王道 夏目漱石『道草』

「己のせいじゃない」としか言いようのないたくさんの道草を食わされて生きている。その細部のひとつひとつを高い視点からしっかり見つめること。「己のせいじゃない」と言いつつ、それをやっているのはやっぱり自分なのだ。自分にもわからない自分を生きることは、その自分を自己と呼ぶならば、自己実現ということになる。自己実現は到達するべき目的地なのではなく、過程なのである。

道草を歩くことになっても、それも一つの人生です。人生は固定されたものでは決してなく、流動的なのです。目的地ではなく、過程こそに意味があります。夏目漱石は49歳で亡くなりました。中年の危機のど真ん中年代です。晩年の作品である『道草』では、過程こそに意味があるスタンスで小説を書いています。『道草』の主人公は、最後に「世の中に片付くなんてものは殆ほとんどありゃしない。一遍起った事は何時までも続くのさ。ただ色々な形に変るから他にも自分にも解らなくなるだけの事さ」と吐露します。
人生のゴールが見えていたとしても、ゴールするまでが重要です。片付くことなどありません。中年世代は一歩一歩楽しみながら、着実に歩いていくのが肝要だと思います。

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