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ずっと同じ景色を見ていた

 先日、インフルエンザにかかった。
 きちんと予防接種をしたにも関わらず、それでも感染し発病し、ぼくのウイルスがもとで家族全員が最終的にインフルエンザで寝込むことになった。
 もちろんぼく以外の家族もみんな予防接種をしていたのに、だ。

 程度の問題なのかもしれないけれど、こうでもあれば結局予防接種なんて単なる気休めでしかないのかもしれないな、などと考えてしまうわけだ。

 ワクチンをしない主義の人に言わせると、ワクチンをした年に限ってインフルにかかるんだから、とのことであるが、今年のようなことが起こるとなると本当にワクチンの効果って何なんだろう? と思ってしまうわけで。

 しかし、去年の夏にかかった新型コロナのときもそうだったが、うまい具合に仕事の谷間でかかるものだ。
 唐突な5日間の休みになっても、仕事に大きな影響のないタイミングにかかるなど、運がいい。とは思うものの、逆に考えれば、どうせぼくなどがいなくても、仕事なんてものはなんとでも回るというものなのだ(他の人にしわ寄せがいくことを抜きにしてではあるが)。

 しかしながら、インフルという大義名分を振りかざして堂々と仕事を休むことができる。

 この際だから、5日間思う存分寝てやるぞ!

 と息巻きながら、これでもか! というくらいによく眠っていた。寝過ぎで腰が痛くなり、明日から仕事復帰だという前の晩はそれまで寝すぎたために逆に眠れないほどであった。

 1日だけ仕事に行き、その後はまた振替休日があるために3連休となった。

 普段であれば、外に出てウォーキングなり買い物なりと体を動かしたりするのだけれど、インフルで鈍りきった体のせいで、まるでそのような気分にならないのだ。
 なので、土曜、日曜、月曜と、録画していたドラマを見たり、アマプラで映画を見たり、モンスターハンターのゲームをしたりしながら、非生産性の権化と化した状態で過ごしたのである。

 目に入る景色は、家の中の景色のみ。そのような同じ景色の中で、何日も泥のように過ごしていると、時々ふと、どうしようもないくらいの虚無感に襲われるのだ。
 何もかもが意味のない、つまらないものに思えてくるのだ。

 ドラマを見て、面白いな、と思う。ゲームで死んで悔しい、と思う。しかしその感情にリアリティーをまるで感じないのだ。充実感をまるで覚えないのである。
 自分は何をするために生きているのだろう。そもそも生きている意味、存在意義など存在しないのかもしれない。
 しかし何かが、大きな何かが今の自分には欠けているのではないか?

 心臓のそばを、冷たい汗が流れる。ぼくは何かを確かめるように、その冷ややかな感触をそっとなぞる。その音に耳を澄ませる。

 そうなのだ。わかっているのだ。

 ドラマや映画は好きだ。音楽も絵の鑑賞も。読書も。

 だけれど、それだけではぼくの心は満たされないのだ。むしろどんどんと虚しさがましてくる気がするのだ。

 そう、書くことのみが、ぼくに最大で唯一の喜びと充実感を与えてくれるものなのだ(何故かいつも見て見ぬふりをしてしまうのだけれど)。

 どういう理屈なのかはわからない。
 そして特別な文章を書けるわけでもない。自分なりの文章しか書けない。
 それなのに、である。

 
 書くことを思うと、いつも中学校時代の原点を思い出す。
 ある時ひとりの友人がぼくに本を貸してくれた。その時に初めてぼくは本の面白さを知り、同時に書くことの楽しさに気づいたのだ。

 ぼくはまだ、あの頃の幻想を見続けているのだろう。しかし、今もなお最終的に着地するのはその場所なのだ。
 そしてそのフィールドはnoteに続いている。

 書こうと思っている短編小説がある。昨日、それをほんの少しだけ書いた。

 そして、今日の午後はこの文章を書いてみた。(前半と後半で内容はガラリと変わってしまったけれど、ま、それはそれでよしとしよう)


 これでまた、明日からの毎日を乗り切ることができるかもしれない。




読んでいただいて、とてもうれしいです!