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バカヤローが宝にかわるその日まで

自分自身に「バカヤロー!」と怒鳴りたくなることだらけの人生を歩んできた。

私はビシッとものが言えない。多少失礼な発言を受け取ったくらいでは、なにも言い返さない(仕事をするうえで必要な場合を除いて)。

なにしろ、社会人になってから「テリー」というあだ名をつけられたときでさえ、言い返せなかった。私は生まれつき目が悪く、幼い頃から当時までは斜視のように見えた。名づけた人は「(外斜視だったタレント)テリー伊藤からとったんだけど!」と大笑いしていた。

それを機に、私はひっそりとコンタクトタイプの特殊義眼をつけて見た目をカバーする暮らしにシフトした。でも、なにも言わなかった。自分が情けなかったし、へんなところで引き合いに出されたテリー伊藤さんがお気の毒で心苦しくもあり、今でも忘れられない。

そんなだったから「言い返せばよかった! 私のバカヤロー! いくじなし!」と思うことはざらにあった。

言い返さないことは、私がこれまでの人生で身につけた処世術に近い。いいように言えばおっとり、悪く言えばトロい私が、うまいこと相手をやりこめるなんてできるはずもない。たとえひどいことを言われたとしても。失礼なことを言う人はたいてい口が達者だったり、攻撃的だったりするのだ。

だから、うまく切り返せないならば聞き流そう、と思うようになった。悪手だと思うけれど、そうするしかなかった。「あんなこと言わせとくなんて。怒ったらええのに!」。友人たちが代わりに陰で怒ってくれるのをありがたくも申し訳なく思っている。

言い返せない人生を40年ほど過ごしてきた最近、優しいと言われることが急に増えた。今までの私はなんとか平穏に生きていくことに精一杯で、他人に対して優しくふるまう余裕を欠いていた。なのに、いつのまにか周囲の人が私を「優しい」と言ってくれる。

「人の気持ちがわかるって、宝だと思いますよ」

先日、かけてもらえた言葉だ。別に苦労話などしていない。ある人の気持ちを勝手に推察してみただけだ。「宝」という単語が出てきたことに、私自身が驚いた。

私は優しくなんかない。ただ、言い返せない人がいることに素早く思いを巡らせるようにはなった。「ああ、あの人、言葉で表現するよりももっと傷ついているかもしれない」と思うことがある。それを察知すると、あいまいなことはあいまいなままに、聞かれたくないだろうことに触れないように、話す癖がついた。

どうしようもなくバカヤローな自分自身に腹を立てることも多い毎日。それでも、母親になり、ちょっとは強くなった。たまには言い返している。

なにより、苦さが優しさに転化する可能性もあるのなら悪くない。バカヤローが宝を生むまで、自分の心を守りながらうだうだするのもありだ。言い返せなかったあの日だって、きっと無駄にはならない。

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