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パパイヤをめぐる愛と不純物

パパイヤの夢を見た。園芸学的には「パパイア」と表記するそうなのだけれど、ここでは私が慣れ親しんできた呼称「パパイヤ」に統一したい(農家の方は「パパイヤ」と呼ぶそうだ)。

さて、パパイヤの夢。先日の夜中、パパイヤを「食ーべーたーいーいぃー」と小さくうめく自分の声で目が覚めた。我がことながら意味がわからなくて、しばらく天井を眺めた。

私は幼い頃、パパイヤが大好きで、母によくねだっていた。熟したオレンジイエローの果肉はほんのり発酵臭がして「南国っぽいなあ」と私の胸をときめかせた。半分に切ると、果実のまんなかには黒くつやつやした小さな種がぎっしり詰まっている。

種をぐりんと取り除き、レモン果汁をかける。酸味のおかげで臭みが消え、パパイヤの味が引き立つのだ。スプーンで果肉をくりぬいて口へ運ぶと、とろんとした甘さが舌の上に広がる。ああ幸せ、と顔もほころぶ。

そんなパパイヤが食べたくて仕方がないという夢だったようだ。食いしん坊すぎる。

朝起きてから、パパイヤをテーブルに出すときに母がよく言っていたことを思い出した。「パパが嫌、ってことかしらねぇ」という言葉だ。母は面白いだじゃれのつもりで口にしていたのだろうけれど、私には面白いとは思えなかった。大好きな父をけなされているように感じたから。私は母の問いかけに答えないのがいつものことだった気がする。

うーん、子どもの頃の記憶って案外あざやかだなあと驚いてしまう。私が娘たち(6歳)に言っているあれやこれやも、実は彼女たちの心に引っかかっていたり、納得がいかなかったりするんだろうな。

私の母だって、自分のだじゃれに娘が嫌悪感を覚えていたなんて思ってもみないだろう。私は私、母は母。それぞれ違う人格だから、嫌だと感じるポイントも違うのだ。

私にとってパパイヤは思い出の食べもの。ちょっと面白くない話もついてくるけれど、母が私(と妹)のためを思って買ってくれ、食べさせてくれていた。思い出のなかのパパイヤには、愛情と不純物がくっついている感じがする。食べものをめぐる記憶は、ときどき複雑だ。

娘たちは大きくなったとき、どんな食べものを見て、どんな記憶をたぐり寄せるのだろう。できるだけいいものであってほしいけれど、そればっかりは彼女たちの心が決めることに違いない。

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