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86万円の誓いは崩れたけれど、人生はつづく

私はケチな性分だと自覚している反面、つかうときにはぽんとお金をつかう。友人と楽しく過ごす場面を除き、日々のカフェ代にはシビアだ。日用品も価格と機能を比べて厳選したい。しかし、これと決めたものに対しては、なけなしの財を放出するタイプ。

10年ほど前、BEDAT & COベダアンドカンパニー の腕時計を買った。機械式(自動巻き)のもので、ケースにダイヤモンドが二重にあしらわれた宝飾性の高い一本だ。

BEDAT & CO「No.3」自動巻きモデルです。
機械式腕時計が欲しかった時期でした。

ベダは、長い歴史を誇る高級腕時計メーカーがひしめくスイス・ジュネーブで誕生した。他と比べると新進といってもいいメーカーだ。シモーヌ・ベダというマダムによって設立され、女性向けの腕時計を多く送り出している。製品群には、きらびやかさと実用性を両立させたものが揃う。

「No.3」は、ステンレスにダイヤモンドを組み合わせてあるところが新鮮だった。この素材づかいはベダの特色だ。さらに、しがない会社員だった私の手がかろうじて届く価格でもあった。

手が届くとはいっても、定価106万円。優待がきいて、86万円ほどで買った。

並行輸入品であればもっと安く買えたのだろうけれど、当時、ベダは並行差別のあるメーカーとして知られていた。並行差別とは、正規店での購入品と並行輸入品とのあいだに差をつける取り扱いのこと。つまり、正規店(または正規代理店)を通さずに買った並行輸入品は、正規のアフターメンテナンスを受けられないこともある。

とにかく、薄給の会社員にとっては勇気のいる買い物だった。腕時計なら、結納品としてもらったカルティエのイエローゴールドのもので十分だったかもしれない。どこへつけていっても恥ずかしくない品だと思っていた。

けれど、私はなにか一つ、いっしょに生きていく分身みたいな存在が欲しかった。それも、自分で買ったものが。一里塚のように、暮らしに印をつけかった。ここまで歩んできたぞ、と。

小柄で手首の細い私にもフィットしたのが
モデル選びの決め手でした。

そんな思いをこめて、ちょっぴり背伸びして買った腕時計。背伸びしたぶんを少しずつ埋めていく生き方がしたいと思っていた。よし、会社員として地道に、実直に歩いていこう。そう誓った。

なのに、妊娠を機に、働くことからいったん退いた。重いつわりとともに働くなかでいろいろなことがあって、私はそれに耐えられなかった(この頃のことはまだ書かないほうがいい気がしている。今となっては誰も悪くないのに、文字にすると誰かを責めているふうになるかもしれないから)。

ああ、誓いはもろく崩れてしまったなあ、と情けなく思うことがある。あの決心はなんだったんだ。

会社を辞めてからは、必死で双子の娘たちを育てた。彼女たちが1歳半になるまでの記憶がさだかではないくらい。少し余裕が出てきたところで、また働けるようになって今に至る。

ベダの腕時計は今も身につけている。私の生き方を象徴しているように思えて、手放すことも、クローゼットの奥にしまいこむこともできない。

私は、叶わなかった願いをたくさんたずさえて毎日を生きている。なにか一つが叶ったとして、そのうしろには数えきれない失敗と挫折が控えている。人生のほとんどは夢の残骸ざんがいでできていると思う瞬間が山ほどある。ステンレスとダイヤモンドの文字盤には、苦い過去が閉じこめられているように感じるのだ。

でも、娘たちの成長に一喜一憂し、ほそぼそと仕事をする今の暮らしは、希望にも満ちている。「何度もコケたけど、ちょっとは前進してるんじゃない?」と気づくことがある。

たくさん挫折して、たくさん恥をかいて、たくさん立ち上がって、たくさん愛して。私なりの幸せを探しながら、この腕時計とまた10年、過ごしていきたい。

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