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吐く息が白くなり始めたら。

妻は今日、体調が良いみたいだ。

仕事帰りに病室を訪ねたら、
夕食後の院内散歩をして戻ってきたところだった。

病院の1階にあるカフェで買った、
妻が好きなラテを手渡した。

「いつもありがとねー。」

満面の笑みで口をつける。
この顔が見たかったのだ。

今年、夏の終わりに職場で倒れて入院した。
結婚して半年後のことだった。

もともと、何かに没頭すると寝食を忘れるタイプだ。
没頭してしまうと、生きるために必要なことへの執着をすっかりなくす。

学生時代からの付き合いで、
レポートやら卒論の時期も、
就活のエントリーシートを作ったり、
面接対策をしているときも、
社会人になり真摯に数字を追っていた時も、
そういう妻を何度も見ていたはずだったのに。

危ないな、と思うときは
食べさせて、寝かせるために
家を訪ねていた。

自分も気を付けていなければいけなかったが、
妻は食事をいつも作ってくれていた。
帰宅時間が妻より3、4時間あとになる。
妻は先に食事しているものだと思っていた。
まさかまともに食べていないと思わなかった。
結婚を機に、転職して残業が少ない職種になったからと油断していた。

今度は良い妻でいる事に没頭してしまったらしい。
段々と食事する時間と眠る時間を削る分量が増え、
休まずに出勤して、夫の食事を作り、
家の掃除をしっかりこなし、
洗濯も細かく分けてしていたようだ。
素材別に洗濯洗剤を分けていたことに、
妻が入院してから気が付いた。
共働きなのだから、分担しようといったけれど
妻のほうが帰りが早いから、と大半をこなしてくれていた。

「ごめんね。やりたいことのほうが優先になりやすくて。
 いつも危なっかしくて。心配かけて。」

「あのね、家事を完璧にこなさなくったって、
 仕事を休んでいたって、何もしてなくても君は
 良い奥さんだと思ってる。だから、今はゆっくりして。」

妻は少し困った顔をした。
家事が出来なくてよくて、
何もしなくていいだなんていわれたら、
妻が困惑するのは分かっている。
でも、この際だから、
言い続けてやろうと思っている。

夏のぎらぎらした日差しが
欠片だけ残って溶けていく
今の時期を過ぎて、
空気が少しづつ冷たくなって、
透き通っているみたいに
澄んだ色味になって、
吐く息が白くなる時期が来ても。

「今は、って言ってもいつまでもゆっくりしてられないよね。」

思った傍から、そう言ってくる。
早速打ち返してやろうじゃないか。

「俺が認めるまで、ゆっくりをやめないでください。
 俺の奥さんを続けてくれるなら、自分を優先してください。
 わかった?」

吐く息が白くなる時期を過ぎて、
透き通って澄んだ色をした空気が
少しづつ色味を帯びて、
柔らかくなってくる時期が来ても。

「んー、ちょっとよくわかんない。」

妻はもうすぐ退院する。
入院と自宅療養を合わせて3か月ほど休職する。
復職するのは、吐く息が白い間だ。

「わかんないなら、今は先のことを考えないで。
 退院してからまた少しづつ考えよう。」


急に妻の目から、
透明な雨粒がぼろぼろと落ちていく。
両手でラテの紙コップを握ったまま。
ときどきその雨粒がラテの蓋にあたって、
ぽっ、ぽっ、ぽっ、と
雨が傘に当たっているときのような音を立てる。

「わかんないものは、わかんないの。
 もうほっといて。今日は帰って。」

「わかったようなこと言ってごめん。
 もう帰るから、今日はゆっくり寝てね。」

病院の1階のコンビニで買った漫画、
月刊ねこぱんちをベッドのテーブルに置いて、
病室をでた。

エレベーターに乗りながら考える。

なんで泣かせちゃったかな。
ダメだな、俺。
君はいい奥さんで、
ダメなのは俺なのに。
こんな奴のために頑張ってくれるなんて、
良い奥さんでしかないのに。

病院の門を出て、
坂道をだらだらと降りて、
地下鉄の駅の階段を下る。
気分も灰色だし、
駅のホームも灰色で、
駅名の表示灯だけが白く明るい。

病院の駅から2駅で最寄り駅につく。
普段だったらそのことはすごくありがたいのだが、
今日に限っては電車に揺られていたかった。
地下鉄の階段を上って地上に出ると、すぐに商店街。

いつもはここで妻にメッセージを送っていた。
何か買って帰ろうか?と。
商店街を歩きながら、
まだまだ思考の渦から抜け出せない。
なんで泣かせてしまったのか、分からない。

あと2か月もすればきっと、
吐く息が白くなってくる。
それまでには、
無理をしないようになっていて欲しい。

無理?
妻は無理をしていたのか。
やりたいことに没頭するのであって、
それは彼女にとっては無理ではない。
彼女なりの良い妻でいることに没頭した。
良い妻でいることを頑張ってくれていた。

無理はしてなかったんだ。
やりたいことを頑張っていてくれてたんだ。
やっぱりいい奥さんじゃないか。
そしてなんてダメなんだ、俺。

やりたいことに没頭して
頑張っている人に、
ましてや自分のために
頑張ってくれている人に、
最初にかけるべき言葉。
それは、
無理をするな、
でも
ゆっくり休め、
でもない。

最初にかけるべき言葉は、
労いの言葉だ。

いつも使っているスーパーから
おさかな天国が流れてきて、
思い詰めてざわついていた気持ちが
強制的に解きほぐされた。

スーパーの前で通行の邪魔にならないように、
カップ式自動販売機のある
ささやかな休憩スペースの
背もたれのない小さいベンチに腰かけた。
おさかな天国を聴きながら、
妻へのメッセージを打ち込む。

俺のために頑張り続けてくれてありがとう。
その気持ちにずっとありがとうって
言えてなくてごめん。
また明日も会いに行っていいですか?

ドキドキしながら送信した。
本当にこの文面で良かったのか、
何回も読み返した。
思っていたより早く読まれて、
OKのスタンプだけ返ってきた。

おさかな天国が終わって、
音楽が呼び込み君に切り替わった。
ポポーポポポポ。
心底、ほっとした。

スマートフォンの画面から顔を上げた。
カップ式自動販売機が目に入る。
妻は寒くなってくると、
この自販機のココアを飲む。
薄くて粉っぽい甘さがなんだか憎めない。
と言って好んでいる。

明日は病院のカフェで売っている
ラテを買っていくけれど、
退院してしばらく経って、
吐く息が白くなり始めたら、
この自販機のココアを一緒に飲みながら、
一緒に笑っていたい。

吐く息が白くなり始めるまでに、
頑張ってくれてありがとうの気持ちが
ちゃんと伝わっていますように。

吐く息が白くなり始めて、
ここでココアを飲んでいる時には、
無理しないで、休んでいいよ
と思っている事が、
大切に思っているという気持ちとして
受け取ってもらえますように。










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