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短編小説『あの日々を僕は忘れてしまった』⑹



 4本目のビールを飲み終えたところで、コハルは再びやってきた。
 昨夜と似た服装で、夏だというのに薄手ではあるものの、長袖のコートを着ている。

「こんばんは」

 コハルは気がついたときには僕の隣で煙草を吸っていて、僕は正直驚きもしたけれど、どうせ鍵を閉め忘れていたのだろうと考えていた。
 それに僕は、少しずつ酔ってきている。

「わたしも貰っても?」

 僕のもう飲み終わりそうなビールを指し示してそう言った彼女に僕は頷いた。
 彼女はプルタブを引き上げると、静かに僕のビールに自身のビールをぶつける。

 暫く、僕たちは無言のまま並んでビールを飲み、煙草を吸っていた。
 いつもは思考を過去へと誘うアルコールが、今日だけは彼女のもとから離してくれる気配がなかった。

 仕方なく、昼間の出来事に思いを馳せる。

 自身の著作はすべて部屋に置いてあった。埃をかぶったそれらのうち、最も厚い埃をかぶったデビュー作を取り出す。
 そこには確かに、あのギターを背負った男が言っていた通りのことが記されていた。

 そして読み進めるうちに、僕はどうにももう分からなくなってしまっていた。

 多分、コユキ、という人物にはモデルがいない。


 あの話は僕の体験を大元の軸にしつつも、しかし多分に脚色されている。
 それは当然のことだった。事実をそのまま記したものを、人は小説とは呼ばない。

 小説は、あくまでフィクションである必要があるのだ。作り物、脚色され、読んだ人が「面白い」と感じるよう、作者の手で方向付けられたもの。

「コユキ、という女の子を、デビュー作には書いたんだ」

「コユキちゃん、未だにあなたの作品に登場する女の子の中で、一番可愛いって思う」

 コハルは煙草の煙を吐き出しながらそう答える。

 今日もその長い髪には白い月光が美しく反射している。
 細身の黒いパンツにシャツを着ただけなのに、彼女は今まで見たどんな女よりも美しい存在として僕の目に映っている。

「ありがとう。でもコユキは、間違いなく僕の人生に登場した誰かじゃない。
 ……この前の言葉の意味を、教えてくれないか?」

 コハルの表情を窺う。
 その表情の変化を僅かだろうと逃しはしない。今の僕の言葉に、彼女の表情はなんらかの変化を生じさせるはずだから。

 そう信じていたが、コハルの表情が少しでも変化することはなかった。
 昨夜の彼女の言葉が適当であるか、或いは“僕よりも僕のことを知っている”と、そう思っていたのに。

 どちらであってもなんらかの変化が生まれるものと思っていたが、ここに来て僕は、このコハルという女が僕の想像していた人物とは異なる人物であるという、より複雑な状況に直面する。

「それは、わたしを題材にしたいということ?」

 コハルはとぼけているのか、首を傾げてそう言った。
 美しい髪の毛が僕の部屋を舞う。月光を背にした彼女は最早神性を帯びているようにも見えた。

「それ以前の話さ」

「じゃあ、わたしには分からない」

「君は、僕がどんな人生を送ってきたかを知っているんじゃないのか」

 コハルは2本目のビールを冷蔵庫から取り出すと、同時に6本目になるビールを僕に手渡した。
 受け取ってプルタブを引き上げると、僕は一息で半分ほどを飲んだ。コハルも半分とはいかずも、同じように勢いよく飲んでいる。

 段々と足元が覚束なくなってきた僕に対して、コハルにはまるで酔っ払っている様子が見られなかった。


 コハルが煙草を味噌汁の入った鍋に投げ込む。
 そしてそのまま、彼女は僕の胸にその細い手を当てた。

「当人以外に、その人の人生が分かる人なんている訳ないじゃない」

「じゃあ何故この前、僕が人生の切り売りをしているだなんて言ったんだ? あれは、僕のことを会う前から知っていた。そういうことじゃないのか?」

「もちろん、人気の作家先生のことは読書好きとして知っていたけど」

「そういうことじゃない」


 正に暖簾に腕押しの状態だった。
 イライラを抑えることができず、僕は彼女の手を払い退けるとその流れのままに煙草に火を点けた。

 煙をひと吸いする毎に酔いが加速度的に回っていくのが分かる。
 だが、それでいつものように過去が覗けるというならばそれでも構わなかった。

「そんなことしたって、見たいものは見れないよ」

「知ってるなら教えてくれ! このままじゃ僕はいつまで経っても書けないんだ。書くためには僕は、僕自身のことを知らなきゃならないんだ」

 ほとんど怒鳴り声を上げた僕を見ても、それでもコハルは柔らかく笑うだけだ。
 いつの間にか新しいビールを取り出しているコハルは、見たこともない銘柄のビールを美味しそうに飲んでいる。
 果たして、僕の家にあんなビールがあっただろうか。

「書くために知りたいの? それとも、分からないから知りたいの?」

 コハルが急に僕を正面から見つめて、そう口にした。
 瞬間、何か懐かしい香りがしていることに気が付く。しかしその香りが一体何の匂いだったかを思い出すことができない。

「それは」

 どちらが真実なのか。問われてみれば僕にも分からなかった。

 もともとは、僕は小説を書くために過去のことが知りたいと思った。
 夢に出てくる見覚えのない女たちを追いかければ、そこに小説執筆の源泉となるものがあるような気がしていた。

 しかし、今はどうだろう。


 少なくとも今、自身の過去を思い出せないという事実に恐れを抱いていることも確かだった。
 また同時に、失われた過去が僕になんらかの幸福を与えてくれるのではないか。そもそも人は、過去なくしては幸福になどなれないのではないかということも考えられる。

「もう一度聞くけれど、どうする? わたしのことを小説に、書く?」

 コハルは飲み終えたらしいビールの缶を、丁度彼女と僕の中間地点に音もなく置いた。
 唇を舐めて、僕を上目遣いで見ている。

 まるで僕が書かせてもらう、というよりは、彼女が僕に書いてもらおうとしているようだと、そうその瞳を見て思う。
 彼女の何が、僕の小説に書かれることを求めているのだろう。


 無言の時間が続く。

 どうするべきか、考えなければならないということは分かっていた。焦りが心を支配する。
 コハルが音もなく、肌と肌が重なり合うくらい近い場所に迫っていたことに気がついた。



 その手が僕の手に触れる。
 酔いの回った僕の体には、それだけでもう十分だった。



 触れた手を取り壁際に彼女を追いやると、僕は無造作に彼女にキスをする。彼女はされるがまま、ただ僕をずっと見ていた。
 キスをする間も、彼女の身体を愛撫する間も、それから服を脱がし、行為に及ぶ間も。


 その視線が僕を捉えて離さないことに気が付きながらも、僕はなす術もなくただ欲に身を任せていた。
 過去が遠ざかる。やはり今日の酔いは、僕を過去に連れていってはくれそうになかった。


 過去がこの手の内からこぼれ落ちていく感触が、僕の性的な欲求を加速度的に満たしていく。

 果てたその瞬間に、遂に僕の小説を書く能力は永遠に失われてしまうのではないか。

 そんな考えが一瞬間脳裏をよぎったが、しかし始まってしまった行為を止めることは僕にはもうできそうになかった。



(続く)



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