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短編小説『川底から遠く』


[依藤の展覧会で会った時にお勧めされた本の感想を、伝え忘れていた]


 そういうLINEが届いたのは、旧友に会うために2時間半も電車を乗り継いで静岡県三島市に向かっていた時のことだった。
 お気に入りの革製のブックカバーを撫でるようにして持ちながら静かに本を読んでいたわたしにとって、スマートフォンのバイブレーションはもちろんのこと、取り出して真っ先に目に飛び込んできた送り主の名前にぎょっとした。


 三島駅には過去2回ほど訪れたことがある。それらはどちらも中学からの友達に会うためで、その人は今、三島市で大学生をしているのだ。大学生活も最後となった今年。そして何より、就職活動を終えて余裕ができてきた今というタイミングで、その人はわたしを2年半ぶりに三島に来ないかと誘ってきたのだった。

 わたしの中で三島駅について特に覚えていることは2つある。
 1つはSuicaで改札を通ることができないこと。これはわたしが今住んでいる千葉県からだと、何か区間が違うからといった理由だと聞いたのを覚えている。そしてもう1つはエスカレーターの異様な早さだ。
 東京駅なんかでエスカレーターが早かったら、わたしは何となくその理由に納得してしまうだろう。だけど、三島という静かな街のエスカレーターが異様に早いのはどう考えてみても不釣り合いだったから、わたしはそのことを強く覚えているのだった。

 LINEの送り主は元カレだった。
 ユウイチという名前の少年。わたしと同い年で、わたしの初めての恋人で、高校生の頃に付き合っていた人。わたしたちは同級生で現在東京芸術大学に通う依藤、という少年の展覧会で偶然再会したのだった。

 別れてから約半年が過ぎていたのだろうか。
 わたしたちは別れたとはいっても喧嘩別れをしたわけではなくて、だからその時もすんなりと、何の違和感もなく話をした。わたしは大学に入って一人暮らしの大変さを思い知ったことなんかの、どうってことのない話をしたように思う。彼はその時、大学進学をやめて働いているのだと。そしてお金を貯めて、海外へ行くのだと言っていたと記憶している。

 そしてわたしたちは確かに、帰り際に互いに本を勧めあったのだ。

[そろそろ着く頃だよね? 楽しんできて]

 別の人からのLINEだった。今の彼氏。大学で出会った一紀は、元カレのユウイチとは違って本を読むわけではない。そういえば、わたしはどうしてあれだけ趣味の合ったユウイチと別れたのだろう。フったのか、フラれたのか。でも、あれだけ気の合ったユウイチをわたしがフるとも思えないから、きっと彼にフラれたのだろう。

[ありがとう。明後日の夕方には帰るからね。
 もし華ちゃんが家に来たら、5日後の20時頃にまた来てと伝えてください。]

 一紀への返信を打っているうちに、車内アナウンスが三島駅に到着することを伝え始めた。
 前に来た時は冬だった。今は夏。初めて三島駅に訪れた時と同じ季節である。初めて来たのは大学に入学して1度目の夏休みだったから、あれからもう3年が経つ。わたしは友人の変化もそうだけれど、3年経った今のわたしがこの街をどう感じるのか。そのことが楽しみだった。
 バイブレーションが鳴る。

[お土産はうなぎパイで]

 そういえば一紀は、うなぎパイが大好きだと言っていた。
 三島駅のエスカレーターは、記憶の通りやっぱり早い。

* * *


 少し遅れるという友人のことを待つために、わたしは駅前にあるベンチに座っていた。目の前では引っ込み思案な噴水が数本空に伸びていて、日差しは強かったけれど目に涼しかった。
 気分だけでも涼もうというのは、昔から日本人に共通しているのかもしれない。わたしは風鈴も大好きだった。

 本1冊とお財布、それに少しの化粧品程度しか入らない小さなポシェットから、わたしはお気に入りの、カズキに貰った革のカバーに身を包んだ谷崎潤一郎の『細雪』を取り出す。これもまた、タイトルでいえば目に涼しい。
 本を読まないカズキは自分では絶対にブックカバーなんて使わないのだけれど、どうしてもこの優しい茶色のブックカバーをわたしにプレゼントしたくって、都内中を駆け回ってくれたらしい。

 彼は決してわたしの趣味に合わせようなんてことはしない。そして、自分の趣味をわたしに押し付けるようなこともしない。その代わりに、わたしの趣味がわたしの趣味であり続けられるようには目一杯の手伝いをしてくれている。そういうところって多分、わたしたちみたいな子どもにはとても難しいことだ。
 だけれどそれを簡単にやってのけるカズキが、わたしは好きだった。

「遅れてごめんごめん」

「大丈夫だよ。部屋の片付けしてくれたんでしょう?」

「流石茉奈は分かってるねー。ほら、わたし今も彼氏のところに転がり込んでるからさ。家に帰るの久しぶりで」

 本を読み始めて10分ほどでやって来た旧友の夏帆は、薄い色のジーンズに赤色のアロハシャツを着ている。目に涼しさを求めていたわたしにとって、名前からして夏満天の彼女のそんな姿は目に刺さるように眩しいものだった。
 夏帆は胸ポケットからハイライトの箱を取り出して、顎でわたしに合図を出した。

「相変わらずのヘビースモーカーなんだね」

というわたしの言葉に、彼女はニヤリとする。

「聞いたよ。茉奈こそボーイなんてしてるんだろう? そろそろ煙草の1本や2本、吸い始めたんじゃないの?」

「どこから聞いたの? ……まあどうせ、依藤あたりなんだろうけれど」

「依藤もこの前こっちに来てさ。何でも水の綺麗な場所に行きたいだとかって、それでわたしの家を貸してやったんだ。
 どうせわたしは彼氏の家だしさ」

 喫煙所は夏帆の家とは反対の方向にあった。夏帆はわたしの持って来たキャリーケースを持ってくれて、わたしは俄かに身体が軽くなったように錯覚する。

「それはそれとして、就職おめでとう」

「ありがとう。夏帆は就職先はこっち?」

 質問に対してわたしを見た夏帆は、少しばかり驚いたようだった。
 ジジジ、と音を立ててものすごい速さで煙草を燃やし尽くしていく。

「わたし、今年の頭に留年が決まっちゃったから、まだまだ卒業は先なんだ」

「留年? また、どうして」

「単純だよ。サボってただけ。去年の夏頃から今年の3月までは、ライブハウスと居酒屋とbarを行き来する生活を送ってたんだ。
 お袋に気が触れちまうんじゃないかってくらいに怒られたよ」

「相変わらずだね」

 煙草の灰を落として、夏帆は最後のひと吸いとして今までの3倍くらい深く煙を吸った。吐き出された煙が屋根のない喫煙所から空へと上っていく。煙草の方は少しの感慨もなく灰皿の底へと捨てられてしまった。
「さて、とりあえず荷物は彼氏の家に置かせてもらってさ、飲みに行こう。美味しいお店がたくさんあるんだ」

 身体の前で拝むようにして手を合わせた夏帆が笑顔をパッと花開かせてそう言った。


* * *


 夏帆がオススメしたいと言っているお店の中で、今日は唯一の串揚げのお店に来ていた。カウンター席から料理をしている様子を見ることのできるそのお店は、そういう造りであるためにうっすら白く烟っている。夏帆はその煙に半ば紛れるようにして煙草の白煙を吐き出していた。

「美味しいでしょ? 実はここ、魚も美味しいから頼もうぜ」

 サンダルを脱いで胡座をかいた夏帆は、ペディキュアの鮮やかな赤色さえ除いてしまえば男性のようにも見える。
 煙草を持っていない左手を高く掲げて店員さんを呼んだ夏帆は、お刺身の盛り合わせを頼んだ。いつも通り、彼女は決めたことを一つの迷いもなく実行していく。その姿に昔、わたしは仄かな憧れを抱いていた。
 わたしには夏帆のように男の子のような格好をする勇気もない。

「気がついた?」

 わたしの側に置かれた空き皿を片付ける店員さんをじっと見つめていたわたしに、夏帆はそう声をかけた。店員さんは特に興味を示すことなくキッチンへと帰っていく。両手には溢れんばかりの空き皿と空になったジョッキが収められていた。
 そのバランス感覚はクラブのボーイに真似できるものでは決してなく、居酒屋という空間に生まれた人にしかできないものだ。

「本人ではないよね?」

「もちろん。本人だったらこの店はもう二度と来ないよ。……まだ許してないし」

 少しだけ俯いた夏帆は、でもすぐにニヤリと悪戯っぽい笑顔を浮かべてわたしを見た。

「顎で使ってる気分になれていいんだ。もう昔とは違うしね、わたしも。何より、美味い酒に罪はないだろ?」

「夏帆らしいね」

 口ではそう言ったけれど、わたしにはしっかり分かっていた。彼女は過去を過去にすることができていない。だから彼女はこの場所に来ているのだ。過去を見つめることで、自分が真に納得できる答えを見つけ出すために。
 そしてそれはきっと、この三島という街でずっとずっと繰り返されてきたのだろう。わたしが知らない時にはもちろん、時には今の恋人の知らないうちに夏帆は、このお店で彼という存在から過去の恋人を思い出していたはずだ。

「そういえば、ユウイチから連絡来なかった?」

 急に紡がれたその言葉に、わたしは危うく持っていたレモンサワーのジョッキを落としかけた。酒の一滴は血の一滴。何度も何度も玲子さんにそう教え込まれているわたしには酒をこぼすことは単位を落とすことよりもはるかに恐ろしい。
 わたしはできる限りの平静を装って口を開いた。

「どうして?」

「この前連絡が来たんだよ。って言っても、依藤からなんだけどさ」

「依藤とは今も仲がいいんだね」

「仲がいいってわけじゃないよ。ただあいつが色んな奴と連絡を取り合ってるみたいなんだ。
 それはよくって、ユウイチの野郎がどうしてか茉奈の話を最近になってしていたらしいんだよ。依藤とユウイチは時々一緒に飲んでいるらしくって」

 ユウイチと依藤という組み合わせは、わたしにしてみれば特段意外性のあるものではなかった。ユウイチは本が大好きで22歳にしてはちょっと気味が悪いくらいに知識が豊富だし、依藤は東京藝術大学の油画科に現役で合格するほどの実力を持つアーティストで、そしてやっぱり知識が豊富だ。
 あの2人はわたしがユウイチと付き合っている頃からわたしの入る隙が見つからないくらい仲が良かった。
 だからきっとこれからも、彼らの交流が途絶えることはないだろう。

「連絡は来たよ。何か、随分前に依藤の展覧会で会った時にお勧めした本の感想を伝えてなかった、って」

「何だよ、それだけ?」

「それだけだよ。逆に何があると思ってるの?」

「まあ、ユウイチだったらそんなもんだよなぁ」

 こうは言っているけれど、実は夏帆はユウイチと直接会ったのは数える程だ。
 わたしと夏帆と依藤が同じ中学の出身で、夏帆だけが別の高校に進学して、わたしと依藤は高校進学後にユウイチと出会った。わたしと夏帆が高校時代にもいつも一緒にいたせいで、わたしたちはお互いの高校の友人について変に詳しいのだ。
 だからわたしも、このお店の店員さんに似ている「彼」のことももちろん知っている。

「あ、そういえば……」

 ジョッキに注がれたハイボールを勢いよく空にした夏帆が煙草の火を点けるのに苦心しているのを横目に見ながら、わたしはまだ返信していないユウイチのラインを開く。そして少し遡ると、依藤の展覧会で会った直後に交したやりとりまで達した。
 やっぱり。
 わたしは今、彼が当時読んでいた小説を読んでいる。谷崎潤一郎の『細雪』。
 ユウイチが当時読んでいて、その感想を詳細にわたしに送っていた作品だ。

 当時のわたしは文豪と呼ばれるような人々の作品を読むことができなかった。
 何を言っているか分からないし、何より面白さが伝わってこないのである。だからわたしは谷崎という名前を見ただけで、半ば条件反射的にそのメッセージを読み飛ばしていたのだろう。現に当時の会話はそこで途切れている。今となっては谷崎の描く女性が好きで好きでたまらないというのに、あの時のわたしにとっては谷崎という文字が意味のない記号に過ぎなかったのだ。

 冷たく暗い、深い深い湖。そしてそこに浮かぶ1本のたおやかな枝。

 それがわたしの抱く、谷崎が描く女性であり、そうしてまたわたしが憧れる女性でもあった。


「そういや、何で茉奈はユウイチと別れたんだっけ?」

 何故別れたのか。その理由はわたしの方が知りたいくらいだった。
 遠く千葉にいる一紀の姿が霞んで、記憶にも遠いユウイチの姿が鮮明に浮かび上がってくる。わたしは彼の柔らかい言葉と、芯のある冬の川に流れる水のような生き方が大好きだった。
 どれだけ苦しい環境にあっても、どれだけの理不尽が降りかかってきてもひたすらに川を流れ続ける水。

「わたしも……覚えてないんだよね」

 『細雪』に登場する雪子という女性のことを思いながら、わたしはそう答えることが精一杯だった。

* * *


 珍しく足下がおぼつかなくなるまで酔っ払った夏帆を連れて帰ったわたしは、夏帆の部屋の前を流れる川の音を聞きながらぼんやりと考えていた。
 川に映った月は美しく輝きながらも揺れている。川の流れに合わせてその姿が頼りなくなったり、逆に空で輝く本物よりも確かに見えてみたり。忙しく変化する月と川の音を聞いていると、何だか酔いがすっかり冷めて思考が鋭くなっていくようだった。

 わたしは、一紀のことが間違いなく好きだ。

 そのことは変わりようのない事実である。
 だけどわたしは今、確かにユウイチと会いたい。もう一度会って話をして、どうしてわたしがフラれなければならなかったのかを聞きたい。そしてまた、それにもかかわらずどうして依藤の展覧会で会った時にあんなに普通に話しかけてくれたのかを。

 だけどきっと、ユウイチと会って話をすることは一紀に対する裏切りだ。
 一紀はわたしを鈍くてぼうっとしているなんて言うけれど、そんなわたしにだってそのくらいのことは分かる。

 一紀は今頃、千葉で何をしているのだろうか。
 バイトはもうとっくに終わった時間だから、友達とお酒でも飲んでいるのだろうか。
 わたしと同棲を始めて以来、彼がバイト帰りにのんでくれなくなったと彼の友人から文句を言われたことがある。もちろんそれは冗談の延長線上にあるものだったけれど、きっとその友人は今日というタイミングを逃すことなくお酒を飲んでいるだろう。

 一紀はお酒が好きだ。特に外で飲むお酒と、こだわりのある居酒屋さんで飲む美味しいお酒。
 だから彼はよく居酒屋やbarに行くし、友人たちとBBQをしたり、夏には屋外の音楽フェスに積極的に参加している。
 わたしもお酒は好きだけれどあくまでそれは人並みに、というレベルだ。
 一紀や夏帆みたいなレベルでお酒が好きなわけではない。

「本が好きなことを許してくれること。わたしに似合うブックカバーを一生懸命探してくれたこと。毎日飽きもせずに褒めてくれること。大好きなお酒を飲んでいてもわたしを一番に考えてくれていること。わたしの友達のこともわたしと同じように大事にしてくれること……」

 小さな声で一紀の好きなところを並べてみる。
 それは一瞬で消えてしまうはずの音なのに、それらの音がまるで川に染み渡っていくように感じられた。心なしかさっきよりもキラキラと輝いて見える川には、よく見ると黒っぽい鯉のような魚が泳いでいる。
 魚は水の流れに従うわけでも逆らうわけでもなく、ゆらゆらと浮いていた。

* * *


 目を覚ましてまず気がついたことは窓の外に聳え立つ富士山の姿だった。
 昔来た時にも見た景色だったけれど、何だか華ちゃんの一件があって以来、わたしはどうも感動しやすくなっているらしい。息を吸い込んだのと同時に溢れ出しそうになった涙をこらえようと、咄嗟にスマホを手に取る。
 すると、持ち主の手に収まったことを察知したスマートフォンが幾つものメッセージを映し出した。

「相変わらず長い」

 覚えず呟いた言葉にわたしは苦笑した。
 昨日考えたことがまるで無駄になっているようにも思える。わたしは一紀が好きだと確認したはずなのに、こんなどうしようもないことで過去が恋しくなってしまう。

 返事が待ちきれなかったらしいユウイチから、件の感想が送られてきていた。
 どんな生活をしているのか、送られてきたのは深夜3時。文章は通知には映りきらないだけの長さはあるらしくて、最後の文章は文章の体をなしていなかった。

 こうやって小説の感想を一紀と話し合ったことは、実は一度もない。一紀はそもそも本を読まない。彼は音楽が好きで、いつも音楽を聴きながらSNSをしたり、或いはゲームをしているから。
 だからーーと言えばそれは言い訳になるのだろうけれど、わたしにはこの感覚が随分と懐かしかった。
 自分の中でユウイチと会いたいと思う気持ちが高まるのを感じる。

「富士山」

 振り向くと夏帆がだらしなく伸びきったティーシャツの首元から思いの外白く薄い左肩を露出させ、胡座をかいてわたしを見ていた。たった今起きたのだろう。大きく口を開いて欠伸をした彼女の瞳には小さな涙の雫が見えた。


「夏は砂埃やら何やらで見えないことも多いんだ。流石、茉奈は運がいいよ」

 ニッコリと笑って立ち上がった夏帆は、扉を一枚隔てた洗面所に気怠げに移動する。お酒が残っているのだろうか。昨日は珍しく足元も覚束ない様子だったし、無理もない。

「うわ、ちょっと、茉奈、これ」

 驚いたような、でも半分笑っているような、そんな声だった。
 立ち上がると自分で思っているよりも身体が微かに重い。新しいボールペンを使ってみたら、なんだか書き心地が悪かった時のような、そういう違和感。わたしの身体にもどうやら夏帆と同じくお酒が残っているらしい。

「見てよ。黒いブツブツ。わたしら昨日これで歯を磨いちゃったのかー」

 夏帆が手にした透明のグラスを覗くと、そこには確かに黒いブツブツが浮かんでいる。錆だろうか。夏帆は基本的に彼氏の家に寝泊まりしていて、この家に帰ってくるのは随分と久しいことだと言っていたら、それが災いしたのだろう。
 使われなくなった人工物ほど弱いものはない。ポップコーンと一緒だ。一度開封してしまえば、恐ろしく短い時間であれは湿気ってしまう。バイト先で何度苦情を受けただろうか。それは手をつけない彼らに問題があるのであって、提供しているわたしに問題があるわけではないのに。

「ペットボトルの水で歯磨きしよっか」

「ごめんね茉奈」

 そんな時だけ夏帆の言葉遣いは女の子らしかった。
 その様子にわたしはなんだか少し笑ってしまう。

「茉奈、なんか今日機嫌良い?」

「そう? そんなことはないと思うけど」

 パジャマのポケットでスマートフォンが振動した。一紀だ、と直感で分かった。まるで咎められているみたいでむっとしかけるが、考えてみれば咎められていると感じるわたしにしか問題はない。
 ユウイチとはもう会わない。ラインも、すぐに終わらせてしまえば問題ない。

「今日はどこ行こうか?」

「近くに廃校になった学校でビールが飲める場所があるんだよね」

「お昼からお酒って、夏帆二日酔いは大丈夫なの?」

 背後で開け放たれた窓の外から、川の水が流れる音がする。魚はまだ、泳いでいるだろうか。

* * *


 千葉でも十分に暑いと思っていたけれど、三島の暑さはそれ以上であるように感じた。何より日差しが厳しい。千葉のそれと比べて、刃の潰れた斧で皮膚を切り取られるような鈍さがあった。
 だから、ということもあるのだろうけれど、外で昼間から飲むビールはとても美味しかった。

「じゃあ夏帆は来年からはもう完全に彼氏さんと同棲するんだ」

「そう。親にももう伝えたし、彼氏ももう就職だし、良いタイミングかなって。そうでもしないとわたしも卒業できなそうだしさ」

「中学の時は想像もできないことだね……。バスケにしか興味がなかった夏帆も、もう結婚秒読みかぁ」

「そこまでじゃないよ。まだまだお試しだって」

 そう言いながらも夏帆は嬉しそうだった。大学一年生の冬くらいから付き合っているんだから、夏帆と彼氏の付き合いは長い。このままいけば、経済的問題をクリアし次第、結婚してしまうだろう。
 依藤がまさか、これから2〜3年のうちに結婚することは想像できないから、仲間内では彼女が初めてになるに違いない。ほんの7年前までは彼女のバスケットボールの試合を応援しに行っていたというのに、不思議なことだ。腑に落ちないとさえ感じてしまう。

「ていうか、茉奈の方はどうなの? 就職先は一紀くんも東京?」

「そうだよ、2人とも東京だから、もしかしたらわたしたちも一緒に住むかも。とはいっても、わたしと一紀は夏帆たちと違ってそこまで付き合い長くないんだけどさ」

「長さじゃないじゃん、そういうのって」

「なになに、夏帆、悟ったみたいなこと言っちゃって」

 考えてみれば、こんな風に誰かと話をするのも久しぶりのことかもしれない。わたしは、夏帆と話をしている時ほど素になれる瞬間が多分他にない。
 だからこそ、そんな夏帆がもしかしたらあと数年で結婚するかもしれない。その左手の薬指に指輪がはめられるのかもしれない。そのことがどうにも腑に落ちないのだ。

「そういえば、ユウイチとは結局話したの? それともやっぱり、自分からフッた手前話しにくい?」

「え、ちょっと待って、わたしがフッた?」

 校庭の跡地に人工の芝を植え込んでいる上に華奢なテーブルが置かれているだけだから、わたしたちの飲むビールが置かれたそれは酷く不安定だ。今も動揺したわたしの足が軽く触れただけで、静岡の地ビールの瓶が2本とも、倒れそうになる。
 慌てて瓶を抑えた夏帆の目は丸く見開かれていた。

「覚えてないの? 理由は教えてくれなかったけど、茉奈からだったよ」

「うそ、わたしユウイチからフラれたと思ってた……」

「……茉奈はユウイチにベタ惚れだったもんね。わたしも不思議だったし」

 わたしがユウイチをフった。それが真実だとしたら、いや、それは間違いなく真実なのだろうけれど、一体どんな理由だったのだろう。
 混乱したままビールを飲むと、口いっぱいに苦味が広がった。

「よかったんじゃない。なんか茉奈、あの頃少しだけ辛そうだったし。
 一紀くんと付き合ってからはそういうの感じないしね」

「……うん、そうだね」

 ユウイチと最後に会った日のことを、わたしは覚えていない。高校を卒業してすぐに別れてしまったということだけを覚えていた。
 他に覚えているのは、学校帰りに寄ったカフェのこと。そしてそこで話した本のこと。そういう日常の諸々のことだ。そしてそれらの記憶はわたしにとってどれもこれも楽しく美しいものとしてわたしの中にあったから、わたしにはどうしてもユウイチと別れる理由が見えてこない。

「暑くなってきたし、ちょっと移動しよっか」

 立ち上がった夏帆は大きく伸びをする。「その前にちょっと一服」と彼女は芝生の端っこにある喫煙所の方に小走りで行ってしまった。
 残されたわたしはテーブルの上にあるスマートフォンに手を触れることも億劫で、読みかけの『細雪』を鞄から取り出す。『細雪』を面白いという感性を、今のわたしは持っている。
 もし今のわたしがユウイチと付き合っていたら……。

 喫煙所にいる夏帆は誰かと電話をしていた。
 わたしと話している時とはまた違った、柔らかい表情を浮かべている。時々悪戯っぽい笑顔を浮かべたかと思うと拗ねたように顔をしかめる様子に、わたしはその電話相手への夏帆の思いを想像した。

* * *


 熱を出したらしい彼氏の看病に行ってしまった夏帆を待つ間、わたしは川辺にあるイタリアンのお店に入っていた。
 川が流れるのを縁側のような場所で眺めながらワインを飲んで食事を楽しめるレストランで、イタリアのアプルツォという場所で作られたルナーリアという白ワインがとても美味しい。
 甘いがくどくなくて、果実の酸味が程よく効いている。ワインは決して得意な方ではないわたしがこれ程までに美味しいと感じたワインは初めてかもしれなかった。

 鮮魚のカルパッチョを食べながら、川を眺めているとここにも魚が泳いでいることに気がつく。
 今回の旅行はどうにも魚と縁が深いらしかった。

 『細雪』を読みながら一紀とラインをしていると、何だか自分が千葉に戻ったような錯覚を覚える。多分慣れないワインで酔いが回っているせいもあるのだろう。雪子はわたしの妹であったかのように思えてきたし、ユウイチのラインについても、とりあえず返信してみようかなと考え始めている。
 慣れない土地で、しかも1人で酔っ払ってしまうことには少々の恐怖があったけれど、それよりもわたしは一刻も早く『細雪』を読んでユウイチのラインに返事をしたかった。

 わたしも座っているテラス席は全部で8人しか座れない。わたしは入口側の端に腰掛けていて、奥には4人組の女性がいた。女子会だろう。スパークリングワインで乾杯をしてから、ずっとカルーアやカシスのカクテルを飲みながら、旦那や子供の愚痴を漏らしている。
 夏帆もわたしも、いつかああやってまだ見ぬ旦那さんや子供の愚痴をこぼすようになるのだろうか。

「川入ってもいいんだって」

 と、その言葉が『細雪』に入り込んでいたわたしの耳にもしっかり届いた。
 魚が逃げてしまう。そう思って川を見やると、いつの間にか陽が落ちていて暗がりに沈んだ川に魚を見つけることはできない。
 1人の女性がわたしの後ろを通ってお店の物らしいサンダルに履き替えると、一瞬の躊躇もなく川に入っていった。バシャバシャと女性が歩くたびに、川の水が跳ねる。

 テラス席から川へは階段を4、5段下りないといけないから、水がこちらにかかることはない。だけどわたしは、見えないけれど確かにいるはずの魚が逃げてしまうことが残念で、その動作を怯えた目で見つめてしまう。
 女性は酔いも相まって酷く楽しそうだった。
 きっと彼女たちは普段、子供の面倒を見たり旦那さんの食事を作ったりと、自分の時間が限りなく少ないのだろう。そういう人の僅かしかない自由で楽しい時間を、わたしのどうってことないエゴのためだけに台無しにしてしまうことはできない。

 わたしはルナーリアを一口飲んで、『細雪』に目を戻した。
 気がつけば作品ももう終わりだ。マリッジブルーというものはこの時代から共通のものだったらしい。誰しも環境の変化には憂鬱にならざるを得ないということなのだろうか。
 夏帆の結婚は想像できても、自身が一紀と結婚することが想像できないわたしには分からない。
 それにわたしが一紀と結婚をするならば、まず間違いなくその前にユウイチに返事を送らなければならないだろう。きっとそうだ。そんな気がする。

 読み終えた『細雪』を静かに閉じて、一紀から貰った革製のブックカバーを優しく撫でる。いつもの優しい手触りに、わたしはホッと息を吐いた。こういう行為は自分を確認するために時々必要になる。

 そうしてまた一口ルナーリアを口に含んでからわたしは、ゆっくりとした動作でラインを開いた。
 ユウイチという名前を探してタップする。開かれたそこには、過去にわたしが彼に紹介した作品に対する感想が、一目でお腹がいっぱいになってしまうくらいにたっぷりと綴られていた。
 感想はただ長いだけではもちろんなくて、彼の冬の川のような感性を存分に味わえるものだった。


 わたしはまずその文面から漂ってくる香りを鼻腔いっぱいに含んで、三島でもない千葉でもない、わたしと夏帆と依藤と、そうして何よりユウイチの育ったあの街の懐かしさに心を置いた。
 山々に囲まれた地方都市。住むには困らないけれど、高校生という若さを発揮するにはあまりに狭く、何もない街だった。でもわたしはあの街の空気が大好きで、毎朝犬の散歩と言っては5時半というほとんどの人が眠りについている街を歩いていた。

 香りを十分に楽しんで、ようやくわたしはその感想を咀嚼し始める。噛むごとにわたしの中に彼の語った言葉が蘇ってくる。あの頃の呼吸の仕方が、言葉遣いが、本の持ち方にページのめくり方が滲み出してくる。
 本当に、わたしはどうしてユウイチをフったのだろう。彼ほど尊い人はきっと今までもこれからも、もう会うことはできないはずだと知っているのに。

 過去に囚われそうになるのをなんとか堪えて、わたしは感想に対するお礼と、わたしが読んだ時の感想。そうして今、『細雪』を読み終わったことを送った。
 それだけにしよう。
 そう思っていたけれど、あの香りと味を思い出したわたしにはもう、わたし自身の指の動きを止めることなんて不可能だった。

[わたしたち、どうして別れたんだっけ?]

[覚えてないの?]

 返信はすぐに来た。でも、別れた理由についてだけ。

[覚えてない。わたし、ユウイチがわたしをフったものだと思っていたの。]

[卒業式の3日後、君の方からだった。]

 女性はいつの間にか川から上がってカルーアミルクを飲んでいた。
 卓上には既にデザートが並んでいる。もうお開きの時間なのだろう。きっと彼女たちの家では旦那さんと子どもたちが首を長くして待っている。

[わたしは、どうしてユウイチのことを?]

[怖い、と言っていたよ。僕のことを嫌いになるのが怖いんだ、と。
 自分はユウイチーー僕に対して劣等感を抱いている。そしてそれはわたしのくだらない自意識のせいだ、って、君は何度も僕に謝ったんだ。]

「ふふ」

 あまりにくだらないことで、わたしは笑ってしまった。
 いや、くだらなくはない。そうだ、わたしはユウイチの感性を美しい、尊いと思うのと同時に彼を恐れていたのだ。そしてまた、そんな彼と釣り合わない自分を惨めにも思っていた。
 だから、わたしは彼と別れることを決めたのだった。

 一度記憶の扉が開いてしまえばあとは簡単なもので、あの日、別れ話をした時の記憶が雪崩のようにわたしの中に流れ込んでくる。雪が降った次の日のことで、ユウイチの家で2人で話していた。
 本で埋め尽くされた彼の部屋が、積もった雪に反射する陽光で美しく輝いていて、わたしはまるで物語の川の底に沈み込んだみたいだと思っていたのだ。

 そんな美しい記憶まで、わたしはいつの間にか忘れていた。
 忘れる必要のないものまで、わたしは忘れようと努めていたのだろう。
 そういえばわたしは、昔から密かにプライドが高いのだ。

[思い出したよ、ごめんね。]

 今度はなかなかユウイチからの返信は送られてこなかった。
 もう話すことはない。話好きでは決してない彼のことだから、もしかするとそう判断したのかもしれない。
 でもわたしにはまだ、聞かなくてはならないことがあった。

[ユウイチは今、何してるの?
 わたしは就職活動も終わって、今は卒業論文を書いたり、思い出の場所を巡ったりしてる。]

[僕は一度浪人したんだけれど、4年前に大学進学を諦めて独学で勉強してる。ヨーロッパで絵の修復を学びたいんだ。だから、言語と絵の勉強。
 実は今月末に、もうヨーロッパに発つんだ。]

 ヨーロッパで絵の修復についての勉強。実に彼らしいと思った。
 そうしてまた、こんな話の直後だというのに普通に話してくれるユウイチに気がついて、当時は気がついていなかった彼の優しさに触れた気がした。

 わたしも一紀も、来年から都内で働く。
 会社は別だけれど、お互いの職場はそれほど遠い場所にあるわけではない。
 ユウイチはずっと遠くに行く。日本という枠組みを飛び出して、わたしの知らない異国の地へと旅立つ。そんな決断は、高校生の頃より成長したつもりの今のわたしでもできない。

[そうだったんだ。じゃあ、最後に話せてよかったよ。
 また日本に戻ることもあるよね? その時は是非、声をかけてね。]

 それ以降、ユウイチからの返信はなかった。
 彼もわたしと同様に、思い出の場所を巡っておきたかっただけなのかもしれない。

 ルナーリアの隣で無言のうちに佇む革のブックカバーを、わたしは再び優しく撫でた。

* * *


「ごめんな茉奈」

「大丈夫、寧ろ感謝してるくらいだから。ルナーリアが美味しかったしね」

 手を合わせて謝る夏帆に、わたしは微笑んだ。
 夏帆はわたしの言葉にホッと胸をなで下ろして、すぐにそれからニヤリと笑った。

「わたしは来年も学生だからさ、きっと茉奈と一紀くんの暮らす家に呼んでよね」

「もちろん。夏帆こそ、自分の家がなくなっても、わたしがこっちに来たらちゃんと面倒みてよね」

 夏帆の笑顔は中学生の頃から変わりないように見えた。
 彼氏の熱ももう下がったらしく、お詫びの印にと自身の車で駅まで送ってもらっていた。彼氏さんは水を差すのも悪いから、と車内で煙草を吸っている。
 そういえば夏帆からは前に会った時よりも煙草の匂いをよく感じると思っていたけれど、それはあの車によく乗っているからかもしれない。

「それじゃあ夏帆、またね。
 来年こそは、きちんと卒業するんだよ」

「任せといて。気をつけて帰るんだよ、茉奈」

 着替えと化粧道具、そうして読み終えた『細雪』の入ったキャリーケースを持って、わたしは改札を通った。振り返ると夏帆が大きく手を振っていて、そのなんとなく子どもっぽい様子にわたしは嬉しくなる。

「いつかーー」

 いつか結婚して、子どもが産まれてもこうして仲良くしていようね。
 そう言おうとしたけれど、わたしは夏帆と同じように手を振るだけにした。

 改札を通って左に折れると、ちょっと前に乗ったばかりのあの妙に速いエスカレーターが目に入る。
 このエスカレーターに乗って、今すぐ一目散に一紀の元へと帰りたい。
 そんな欲求がむくむくと空に浮かぶ入道雲のように溢れてきたけれど、電車に乗って3時間弱を待つのもまた、楽しいかもしれないと思い直した。



[了]


前話(今作単体でも読めますが、主人公は下記作品の主人公と同一人物であり、また同様の主題を持った作品です。)


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