短編小説『あの日々を僕は忘れてしまった』⑼
いつの間にか、放課後はコユキちゃんとお話をする時間になっていた。
授業が終わったら、これまでなら学校の図書室か校庭で夕方になるまでぼうっとしていたんだけれど、最近はすぐに家に帰るようになった。
コユキちゃんは本当はどこにもいない女の子だから、学校でお話をしたりはできない。
だから僕は、少しでも早く1人になってコユキちゃんとお話しするために、毎日急いで帰っていたんだ。
季節はもうすっかり夏で、夕方の匂いはいつもと変わらないけれど、それでもやっぱりなんだかジメジメした、それでいて夏休みが近づいているワクワクした感じもしていた。
僕はベランダの窓を開けてコユキちゃんと2人でソーダ味の水色の棒アイスを食べながら、夜になるまで毎日本の話をしていた。
相変わらずお父さんの帰りは遅くって、ご飯も自分で作ったり買いに行かなくちゃいけなかったけれど、それでもとっても楽しかった。
ただ、夏休みは僕にとってすごく楽しみな反面、授業参観と同じくらいに嫌なものだった。
それをある日、急に僕は思い出さなくちゃいけないことになった。
* * *
「やっぱり、わたしのことは書く気にならない?」
そろそろ学生たちは夏休みに入るだろうと、ベランダから眼下の街を眺めつつ考えていた時だった。コハルがその話を始めたのは。
「どういう人だと書きたくなるものなの? わたしじゃ退屈?」
「小説が書けないだけだよ」
僕はそう言って笑って見せたが、彼女は笑おうとはしなかった。
煙草を吸おうとポケットから取り出して火を点ける。
いつもだったら僕かコハルのどちらかが吸い始めたらもう一方も吸い始めていたのだが、今日のコハルは煙草を取り出そうとすらしなかった。
「でも、最近のあなたは何かを書いてる」
予想していなかった一言に、僕は危うく煙草を落としそうになる。
確かにそうだった。僕は最近やっと、書けないなりにどうすれば小説を書けるのかを探り始めていた。
それは言うなれば「自らの人生を切り売りする作家」からの脱却であり、つまり僕の体験をベースとしない物語を作ることだった。
だが、その執筆作業はお世辞にもうまくいっているとはいえない。
「君は、僕のことをよく見ているんだね」
「好きな人のことだもの。見るに決まってるでしょ」
コハルは少しも照れたりする様子を見せずにそう言った。
あまりに堂々としたその態度に、僕は一瞬間告白されていることにも気がつかないで、彼女のその美しい態度に見惚れていた。
人はこうも力強く、そしてまた多くを受け入れる深さを手に入れることができるのかと思う。
彼女は僕が持ち得ないものをあまりにも多く持っていた。
「でも、書けないんだ」
「やっぱり、わたしはセフレ止まり?」
「そうじゃない」
予想外に大きくなった自身の声に驚くと同時に、僕は自分の声の熱量で思考が冷えていくのを感じた。
彼女は微笑んでいるが、その瞳にはいつもであれば満ち満ちている自信が見つけられなかった。
「……そうじゃないんだ」
信じてくれ、とか、僕も君のことが好きなんだ、とか。
言おうと思えば言える言葉は無数にあった。しかしそのどれもが、僕の今の気持ちを表現するには陳腐なものに思えた。
小説家という言葉を使う職業についていながら、僕は自分の気持ちひとつだってろくに表現することができない。
自らの底の浅さがコハルにも見透かされているのではないかと思うと、顔が熱くなるのが分かった。
「ただ……ただ、怖いんだ。僕は君のことを書くのが怖い。正直に言えばそう、怖いんだ。何故と問われれば、上手く説明することはできない。説明できないししたくないんだ。
だけど、君なら僕の言いたいことが分かるんじゃないか、って、そんな都合のいいことも考えている。
だって、そうだろう? 君は僕のことをずっと知っていたし、何より僕に僕のことを教えてくれた人だ。君は僕よりも僕のことに詳しくなきゃいけないはずだ」
コハルは返事をする様子もなく、ジーンズのお尻のポケットに手を突っ込むと煙草を口に咥えた。
燃え移らないように髪をかきあげて火を点ける。
いつかみたスポーツブランドのロゴマークみたいな形の煙とは違って、外で吐き出す煙は輪郭も曖昧なままに、いつの間にか消えてしまう。
2人で無言で煙草を吸って、暫くしてからコハルはただ一言「そう」と呟いた。
続く沈黙の中で、ただ僕の煙草がジリジリと燃える音だけが僕とコハルの間に響いている。
「書けないと思う、きっと」
「え?」
聞き返すと、ようやくコハルは僕の方を見た。
その瞳は僅かにだが確かに、涙で滲んでいるように見える。
「あなたは自分の人生になかったことなんて、書けやしないの」
(続く)
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