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精神疾患者である母との壮絶な暮らし

私の母は、強迫性障害という精神疾患を患っています。
強迫性障害とは、手が汚れているような気がして何回も手を洗ったり、鍵をかけたか不安になって何度も家に引き返したり、そのような症状が知られています。
母も手足を洗いすぎていつも赤く被れていましたし、何度も家に引き返すのでよく遅刻していました。
▼無意味な行為がやめられない~強迫性障害
http://www.myclinic.ne.jp/imobile/contents/medicalinfo/gsk/top_mental/mental_003/mdcl_info.html

母のルール

母は「巻き込み型」と呼ばれるもので、その無意味なルールを私たち家族にも強要しました。
例えば、ジャガイモと牛乳を買ってくるように頼まれ、その二つを同じ袋に入れて帰ったら、母は怒り狂って私を殴ります。母にとって、土や地面などは触れてはいけないもの。ビニール入りだとしても土がついたジャガイモを、他のものと一緒にするなんてありえないのです。
「あ~疲れた」と言いながら、重い荷物をちょっとでも地面に降ろしたら、その荷物は捨てられます。同様に、うっかりスカートの裾が地面についてしまったら、その服は捨てられます。洋服が好きな私には、耐え難い苦痛でした。
地面には床も含まれます。私は畳や床に直に座ることは許されず、決まった座布団を決まった場所に置いて座っていました。横になったりくつろいだりできるのは、自分のベッドの上だけでした。

もう一つ、母が汚くて耐えられないものはトイレでした。洋式便座に座れないので、外出が苦痛だったようです。もちろん私が洋式便座に座ることも許されません。でも、個室に入って来てまでチェックはしていなかったので、座っていないと嘘をついてもバレませんでした。
ただ、家のトイレにトイレットペーパーを設置することが許されず(トイレにあるものを肌に触れさせるなどありえないということのようです)、トイレに行く前に、トイレットペーパー置き場に取りに行かなくてはならず、しかも廊下や部屋によってスリッパを履き変えなくてはならなかったので、お腹を壊しているときは地獄でした。腹痛を我慢して取りに行って、痛みに耐え切れず失神したこともあります。

とにかく生活や行動の一つ一つが無意味で理不尽なルールに縛られたものでした。「そんなの守らなければいいじゃない」と、まともな人だったら思いますよね。でも、守らないと、普段の母が使わないような「てめー、ふざけんなこの野郎!」などの暴言とともに、私の髪の毛を持って振り回されたり、体中を殴られたりするので、抵抗するのは難しかったのです。

私は間違っていない

しかし、私は母の言いなりになっていたわけではありませんでした。「私は絶対正しい、間違っているのはお母さんだ」といつも思っていました。虐待を受けている人は、「自分が悪い子だから殴られるんだ」と思う人が多いので、ここは私の特徴かもしれません。でも、自分が正しいという想いが強かったのがよかったとは思いません。その想いのせいで弱い自分を自分が認めませんでした。死にたいほど辛くても、「死にたいと思ったらいけない、私は間違っていない」と、弱い自分をさらけ出せなかったのです。自分を責める人も、自分を信じている人も、いずれも結局は苦しいのです。

私を苦しめたことはもう一つあります。暴力や暴言を吐いて少し経つと、母は何事もなかったかのように普通に話しかけてくるのです。私は母の行為に、殴られながらもいつも怒っていて、こっちは怒りが治まっていないのに、すぐにケロッとしてしまう母の態度も許せませんでした。

苦しんでいるのは私だけ…

私の中の「間違っているのは母」の「間違っている」は、10代の頃には「狂っている」に代わっていきました。母は狂っているからこんな酷いことをするに違いない、そう思い、父に相談しました。
父は、母の理不尽さに耐え切れず、一人っ子の私を置いて、海外赴任をしていました。「私を置いて母から逃げた父」を許せなくもありましたが、母のことを話して解ってくれる、唯一の理解者でもありました。
相談の答えは、「金は出すから自分で病院に連れていけ」でした。その時私は高校生。母に上手く伝えることもできず、逆に「キチガイ扱いするな!」とキレられてお終いでした。
結局母が病院に行く気になってくれたのは、私に子どもが生まれてからでした。そこでようやく「強迫性障害」という病名がついたのです。
この頃はもう母も私に虐待していたことを認めて謝ってくれていました。しかし、診察室で母から医師に言った言葉に、私は衝撃を受けました。母は、私に暴力を振るっていたことを覚えていなかったのです。
いつも酷いことをした後にケロッとしていたのは、その時の記憶がないからでした。本当にショックでした。言ってみれば母は加害者で、私は被害者です。被害者の私はフラシュバックで苦しんだり、幼いころからのストレスが原因で未だに体調が悪かったりするのに、加害者の母には嫌な記憶はないのです。「結局苦しんでいるのは私だけなんだ…」

もう会わないと決めた

頭では「今は、母は過去を謝ってくれて償おうとしている」と判ってはいても、心は無理でした。もう何年も母には会っていません。無理して会うと体調を崩し、電話で声を聴くことも出来なくなりました。
会わないと決めてからも罪悪感はありました。血が繋がっている親子なのに会うこともせず、孫を会わせることもしていないのです。

でも今は、会わないと決めてよかったと思っています。体調がよくなったということもありますが、距離を置くことで冷静に母を見つめることができて、今は感謝する気持ちも生まれました。
母がいなかったら、私はコルデサロンを開くこともなかったし、そこから生まれた仲間に会うこともなかった。それに、人の生きづらさや苦しみに気付くこともなかったでしょう。
今、母に会うことはできないけど、母に感謝することができて、本当によかったです。以前はなんでも母のせいにして、自分の人生を生きていなかったように思います。
やっと母の呪縛から逃れて、自分の生きたいように、やりたいように生きている実感があります。


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