見出し画像

『14歳の栞』から感じた「生きる世界」

『14歳の栞』というドキュメンタリー映画を観た。

とある中学校に通う、ごくどこにでもいる中学2年生35人一人ひとりの日常の等身大の姿をそのまま撮った映像。公式HPにも書かれてあるが、起承転結があることもなく、ハッピーエンドやバッドエンドがあるわけでもなく、どこにでもある日々。だからこそのリアリティ。

かつて自分が経験した「リアル」よりもはるかに大きなリアリティ

出典:”14歳の栞”, https://14-shiori.com/ (2023/04/25)

みんなで居る時の”自分”や、個別インタビューを受けている時やふとした瞬間に発せられる言葉から垣間見える”自分”など、14年間生きてきた世界、生きている世界の中で喜び、傷つき、悩み、たくさんの葛藤をしながらアイデンティティを形成していく様が画面を通してストレートに伝わってきた。

ありのままの自分と学校という社会、社会化されきっていない本来の自己と社会化を要請される環境との狭間で起こるすべての出来事(イベント)は、否が応にでも心身に吸収される。

感受性が高く、色んな出来事や言葉を吸収するが故に、本来の”自分”として生きていることでたくさん傷つき、いつの間にか世界は安心安全ではなくなっていく。

この時期は、ある意味ではぎりぎりの自然状態にあるように思う。都市化(社会化)されていない自己やコミュニティの中だからこそ起こる生の葛藤の連続。本当のダイバーシティを生きるってそういうこと。きれいじゃなくて、面倒くさくて、だからこその美しさがあるような。

ありのまま生きるということは残酷で、そして、それは生のリアリティに満ちている。答えがない中で、傷つき、試行錯誤しながら、自分や他者と向き合い生きていくからこそ、そこに生きる一人ひとりの生き生きとした生のかたちが現れる。

”生きることの核心部分は始点や終点にはなく、生きることの出発地と目的地を結ぶことではない。むしろそれは、無数の物たちが流転しながら生成、持続、瓦解するなかを絶えず切り拓き続けてゆくことであるはずだ。つまるところ、生きていることは開いていく運動であって・・・。”

ティム・インゴルド(2021), 『生きていること 動く、知る、記述する』, 左右社, p29』

ユートピアはない。つくられていない等身大の圧倒的な生のリアリティの中で、世界と折り合いをつけて生きるということ。そこにこそ生き生きとした生の実感があるということ。そんな、生きるということを教えてくれたような気がする。

”「すべてはただ過ぎ去っていく」という視点は、いわばあきらめの世界観です。人が自然の流れに逆らっても所詮は無駄だと、という考え方です。しかし日本人はそのようなあきらめの中に、むしろ積極的に美のあり方を見出してきました。”

竹内整一(2023), 『「おのずから」と「みずから」 日本思想の基層』, ちくま文芸文庫, p272』

”・・・あきらめを人はよく消極的だといつて笑ひますが、・・・努力の空しいことを感ずる心に、始めて広い空間が開らけて来る。”

同書, p275

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?