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厳しい対応の背景 ヨブ記1-2章

2023年10月1日 礼拝


ヨブ記2:9
すると彼の妻が彼に言った。「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」

タイトル画像:12019によるPixabayからの画像

はじめに


今回はヨブ記を取り上げます。なぜ、聖書にはヨブ記のような不条理な記事が掲載されているのかと疑問に思うのです。多くの哲学者や神学者、文学を扱う方々のテーマとしてヨブ記が取り上げられているのは、多くの人がしるところです。今回は、不条理な世の中にあって、苦しみにあえぐ人に対して、私たちはどう考えているのかを見つめていきたいと思います。

ヨブについて


ヨブ記という書簡は、非常に古く、実は創世記よりもずっと前の時代に書かれたと言われております。モーセ五書がモーセの著作であるとすると、約BC1,400年頃と言われております。一方、ヨブ記が書かれた年代が族長時代、つまりアブラハムやイサク、ヤコブが生きていた時代と言われておりますから、聖書中、最も初期に書かれた書物であると考えられております。学者によっては、口伝によって伝えられ、ソロモンの時代に編纂されたという説もありますが、いずれにせよ、はるか古代の書簡であることはいうまでもありません。

ヨブが生きていた時代を示す根拠がありますが、それは創世記の10章にノアの子孫の系図が掲載されており、創世記10:29にセムの子孫の一人として「ヨバブ」という名が出てきます。

創 10:29 オフィル、ハビラ、ヨバブを生んだ。これらはみな、ヨクタンの子孫であった。

新改訳聖書 いのちのことば社

このヨバブがヨブではないかと言われています。この説を支持するとすれば、ヨブはアブラハムと同時代、紀元前二千年頃に生きていた人ではないかと言われています。

その人格

さて、ヨブについての人となりを見ていきますと、ヨブ記にはこうあります。

ヨブ1:1 ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。

ヨブという人物を一言で言えば、欠陥のない人物と言えるかと思います。1節に、『潔白』と訳されているתָּ֧ם(tām)という言葉がありますが、「完全」という意味があります。ノアも彼と同様に「完全」であったと言われています(創世記6:9)。アブラハムはそうであることを要求されており(創世記17:1)、イスラエルの民に対して神が要求していることは「完全」ということでした(申命記18:13)。

ここでヨブに与えられている性質は、知恵によって授けられているものでした。

ヨブ 28:28 こうして、神は人に仰せられた。「見よ。主を恐れること、これが知恵である。悪から離れることは悟りである。」

彼は、悪を拒み主を選ぶという軸で自分を律していた人物でした。それが、神が求める完全ということです。

祝福されたヨブ

神は、こうした姿勢のヨブを喜び、祝福を与えていたことが2節から4節から見ることができます。

ヨブ
1:2 彼には七人の息子と三人の娘が生まれた。
1:3 彼は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭、それに非常に多くのしもべを持っていた。それでこの人は東の人々の中で一番の富豪であった。
1:4 彼の息子たちは互いに行き来し、それぞれ自分の日に、その家で祝宴を開き、人をやって彼らの三人の姉妹も招き、彼らといっしょに飲み食いするのを常としていた。

まずは、ヨブは10人もの子宝に恵まれていました。つぎに、多くの財産を所有していました。家畜の値段はわかりにくいのですが、日本での羊の値段は、一頭10~20万円、ラクダは日本では、500万円ですが、中東の価格だと100万円、牛は日本で50万円、ロバは日本で買うとなると35~100万円前後という相場になるそうです。
当時の物価と、日本の相場を単純に比較はできないものの、単純計算でいくと、羊7千万円から1億4千万円、ラクダは1億5千万円、牛2億5千万円、ロバを一頭50万とすると2億5千万円ということで、合計額約8億円ほどの資産を所有していました。
ただ、これはあくまでも所有している家畜の金額であって、これにエサ代であるとか、放牧にかかる人件費だとかを入れるとこの何倍ものお金がかかることであったかと思います。

こうした資産が生み出す利益によって、ヨブの一家は祝福され、ヨブの住む地域において富豪であったと聖書は伝えます。

しかも、ヨブの子どもたちは、資産に恵まれていただけでなく、ともに行き来するぐらいに仲良しであったことがわかります。
資産規模が大きくなると、資産でもめることが普通ですが、彼らはパーティーを開き仲睦まじい幸せな家族づきあいをしていたということです。

1:4 彼の息子たちは互いに行き来し、それぞれ自分の日に、その家で祝宴を開き、人をやって彼らの三人の姉妹も招き、彼らといっしょに飲み食いするのを常としていた。

ヨブの家庭環境を見ますと、祝福ということは物心両面を満たしていた。理想的な家庭であることがわかります。

良く聞く話ですと、こうした恵まれた家庭にあると、欲が昂じて不埒になるであるとか、不道徳やら不健康な生活に堕ちていくことがあるといわれますが、ヨブが「完全」であった点は、こうした恵まれた環境でも不遜になるでもなく、態度が横柄になるでもなく、常に主を怖れる姿勢にありました。

ヨブ
1:5 こうして祝宴の日が一巡すると、ヨブは彼らを呼び寄せ、聖別することにしていた。彼は翌朝早く、彼らひとりひとりのために、それぞれの全焼のいけにえをささげた。ヨブは、「私の息子たちが、あるいは罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれない。」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた。

彼が常に案じていたことは、何不自由なく育った子どもたちが、神への感謝を忘れ、「私の息子たちが、あるいは罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれない。」と思って、執り成しの祈りと礼拝を捧げていました。

ヨブは、祝福されてはいましたが、彼が常に心に抱いていたことは、自分の祝福が自分の能力や知恵、才覚によってもたらされたのではなく、神から来ているものであることを痛感し、そのために礼拝を欠かすことがなかったということでした。

祝福にあっても祝福に耽溺することなく、祝福の背後にある神を見続けていたことによって、ヨブを神は「完全」であると評価していました。

突如として過酷な試練が襲いかかる


礼拝を欠かすこともなく、常に神を信じ、神への感謝と畏敬の念をいだきつつ、敬虔な姿勢を崩すこともなかった、祝福されたヨブに突如として試練が襲いかかります。

1:13 ある日、彼の息子、娘たちが、一番上の兄の家で食事をしたり、ぶどう酒を飲んだりしていたとき、
1:14 使いがヨブのところに来て言った。「牛が耕し、そのそばで、ろばが草を食べていましたが、
1:15 シェバ人が襲いかかり、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」

息子や娘たちが長男の家で、宴の中で食事を楽しみ、談笑している最中、シェバ人が襲いかかり、家畜や財産を奪います。「若い者たち」とありますから、使用人たちでしょうか、シェバ人の強奪から守ろうとした若者たちを皆殺しにするという惨劇が起こります。
悲劇は、更に続きます。

ヨブ
1:16 この者がまだ話している間に、他のひとりが来て言った。「神の火が天から下り、羊と若い者たちを焼き尽くしました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」

財産や家畜を奪われた息子たちに、神の火とありますが、おそらく激しい落雷があったのでしょう。神の火によって羊や牧童が死にます。

ヨブ
1:17 この者がまだ話している間に、また他のひとりが来て言った。「カルデヤ人が三組になって、らくだを襲い、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」

 今度は、バビロンに住むカルデヤ人の強奪に遭い、ラクダが奪われ、管理していた牧童は殺されていきます。

ヨブ
1:18 この者がまだ話している間に、また他のひとりが来て言った。「あなたのご子息や娘さんたちは一番上のお兄さんの家で、食事をしたりぶどう酒を飲んだりしておられました。
1:19 そこへ荒野のほうから大風が吹いて来て、家の四隅を打ち、それがお若い方々の上に倒れたので、みなさまは死なれました。私ひとりだけがのがれて、あなたにお知らせするのです。」

最終的に、子どもたちは突風による家屋の倒壊によって全員の死亡が確認されました。

こうした悲劇の連鎖ということは、通常ありえないことですし、常識的には考えられないことです。一家すべてを失うということはありますが、持っていた財産や使用人たちのすべてを一気に失うということは想像に絶する悲劇とも言えましょう。

持っていた財産や子どもたちを失ったヨブは、おそらく茫然自失ではなかったかとも思います。しかし、ヨブは気を取り直して神に礼拝します。

ヨブ
1:20 このとき、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、
1:21 そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」
1:22 ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。

ヨブは、悲しみのあまり神を呪うということはなかったのです。これは、信仰を持つ者の特権でもあります。クリスチャンにとって激しい悲しみや試練の瞬間は、激しい喜びの瞬間と同じように、私たちを即座に神の御前に向かわせるものです。神の御心は私たちに益をもたらすものであると普通はとらえますが、ヨブは、財産や子宝に恵まれるものだけを祝福と考えていなかったのです。壮絶な体験をも、神の御心によるものであるという意識を21節の告白を通して、彼の信仰を表明しています。

1:21 そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」

この告白は、不幸や試練のなかにあったとしても、諦観ではありません。諦観とは、あきらめ、悟って平然とすることを言いますが、そうした諦めという態度ではなく、最後まで賛美し続けるという態度に心打たれるものがあります。

厳しい対応をしてしまう心理


試練は、財産や子供を失うのにとどまりません。さらにヨブには悲劇が襲いかかります。今度は、自身の健康の喪失です。悪性の腫物が全身に発生します。

ヨブ
2:7 サタンは主の前から出て行き、ヨブの足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で彼を打った。
2:8 ヨブは土器のかけらを取って自分の身をかき、また灰の中にすわった。

皮膚がんの患者の方に聞いたことがありますが、激しい痛みが伴い、それだけで死にたくなるということでした。
その方への同情はできても、相手の方の苦しみというものが想像できずに、思わず目を背けたくなったのは事実でした。

ヨブの病というものもそうだったのでしょう。誰も、彼の災いと病の苦しみを思うと、目を背けたくなる、離れたくなるというのは率直な思いであったことでしょう。

身近な人からの無理解

一番ヨブのそばにいて理解していると思われる人物といえば、ヨブの妻であったわけですが、彼女はヨブに対してどう接したのかといえば、

2:9 すると彼の妻が彼に言った。「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」

ヨブの良き理解者であった妻ですら、彼を見放してしまいました。彼の悲惨な状況を見た時に、いくら信仰を持っていても、成功や健康、さらには幸福からかけ離れたものであったと知ったならば、ほとんどの人は、信仰は意味がないと考えるのは普通であると思います。こうした思いは、過去の実績や過去の成功は関係ありません。どんなに世界のために貢献したとされる人物であっても、落ちぶれてしまっては誰も相手にしないものです。世間が世知辛いと言われるのは、現状どうであるのかという点でしか見ないからです。

ヨブの友人たちも、ヨブの現状をその目で確認し、彼のことを思って心痛めますが、結局のところ、ヨブの行いや考えが悪かったからこうなったと苦しめます。ヨブ記のテキストを読めば、ヨブの試練は、因果応報であったのではありません。あくまでも神の許容のうちに悪魔によってもたらされたことでした。

なぜ神がここまで過酷なことを許されるのかという理不尽な思いの中に読者である我々も思わされるものですが、そうしたことを知らない、ヨブの妻や友人たちはヨブを一方的に責め立てます。いや、彼らは霊的な世界のことへの理解がない、聖書の記事を読んだわけでもないのでそうした対応になるのは仕方ないことかもしれません。ただ言えることは、たとえ、いくら近くにいる家族、兄弟、妻、夫であっても、信仰という視点がなければ、こうした状況を見た時に信仰には意味がないと論じるのはもっともであると感じますし、我々も、ヨブの妻や友人のようになりかねないということを暗示しています。

実は、身内や近親者ほどその人の気持ちに寄り添うということがなかなかできないものです。特に、愛しているからこそ、厳しくしてしまう。愛するものが困っているから見ていられないという思いが、ヨブの妻のなかに見られた心理です。そうした、ヨブの妻が厳しい言葉で彼を苦しめたのは、妻自身の心を守るためでもありました。私たちは、自分を守るために、相手を突き放す、放置する、見過ごすということが普通にあるのではないでしょうか。

結果的に、ヨブは家庭の中で苦痛と孤独を味わうことになりました。厳しいことを言う、塩対応をしてしまうというのは、距離のある人に対してするのではないのです。愛すべき身近な人に対してして行ってしまうものです。

ヨブの立場に立って考えるならば、最悪な試練は、私たちの身近にいる人々が、信仰というものの結末が悲劇であった時に、私たちの神に近づくことを助けたり、信仰が確かなものであるとの助言や励ましを与えるのではなく、その信仰に意味がない、あるいは無駄であるといったように、相手の立場を理解せずに、支えることのない姿勢が、苦しみを持った当事者に与える試練ではないかと思うのです。

ヨブへの無理解とヨブの苦しみというものは、当事者しかわからない痛みでもあります。しかし、これは、苦しみにある当事者だけのものではありません。今は何も心配もないかもしれませんが、必ずいつかは訪れるものだと思います。いつ私たちは、苦しみの当事者になるかもしれない存在だということを忘れてはいけません。そうした意識が人を支える原動力になります。

生きている以上、人生に確実というものはありません。あれほど完璧であったヨブですら、試練を受けた以上、私たちが試練に遭わないということはありえません。私たちもいつかは当事者になるのです。とは言いましても、身近な人への配慮、支援、理解というものは、簡単なように見えてとても難しい課題です。人間はどうしても苦しみや苦労といった負荷を負うということから離れたくなるからです。できたら、誰かにこの負担を負ってもらいたいというのが私たちの信仰の基礎にあるのです。

私も率直に言えば、これ以上苦労したくないというのが本音です。しかし、イエス・キリストの十字架を知った私たちは、十字架にかけられている身近な人の苦しみから目をそらして良いものでしょうか。平安で安穏とした暮らしを求めて、苦しみから離れようとしていないでしょうか。

周囲を見つめてください、隣人の嘆きを。言いようのない心の叫びが耳に入ってはこないでしょうか。同じ家族、同じ兄弟姉妹、伴侶、同僚、教会の兄弟姉妹に対して寄り添っているでしょうか、一面だけ見て評価し、厳しい対応をしてはいないでしょうか。本当に困っている人の要求ではなく、心に向かって問いかけているでしょうか。

そこで私たちは何をすべきでしょうか。
目をつぶる。耳を塞ぐ、そこから立ち去る。こうした態度で良いことでしょうか。我が事として受け止めていく覚悟をイエス・キリストの助けによって豊かにされていこうではありませんか。アーメン。