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花散りぬれど~part1~

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恋愛、夫婦愛、親子愛、友情など、儚い恋や一途な愛、そして慈しみが、命を支えてくれるのかを綴って行きたいと思います
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記事一覧

フィールドワークの日々

フィールドワークの日々

私は大学1年の終わりには、先輩の班について奥三河のフィールドワークに出かけた。
その村のフィールドワークはもう終わるので、自分たちは新しいフィールドを探さねばならなかった。
奥三河で一緒に活動した私とヒトシを中心に、候補地選びをの下見が始まった。
最初の下見は、水窪町にある山頂集落だった。
因みに水窪町は、現在では浜松市になっている。
その集落は標高650mもの山の上にあり、当時はまだ自動車が通れ

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未熟な自由

未熟な自由

当時はやっていたオフコースの「さよなら」を、私がギター片手に歌うとかなはとても嫌がった。
そして、したたかな自由をもたなかったふたりは、歌詞のように「さよなら」しなくてはならなくなった。
私たち頃の親は、私たちよりももっと親に縛られて生きていた。
私たちが親より自由であっても、それなりの縛りもあった。
私の場合は、地元に帰って来いとは言われなかったが、4人兄弟は均等に学費を出すので、余分には出せな

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友達以上 恋人未満

友達以上 恋人未満

私は、百合恵とは入学以来の恋人未満の友達関係が続いていたが、かなを通しても女友達が何人かできた。

かなは私が一浪しているので同じ年だから、学年は上であっても、年上の人ではなかった。

かなの親しい友達であった同学年の和子ちゃんは、私のアパートの近くに住んでいた自宅生でゼミも一緒だった。

かなが帰省していなくて淋しかった時などに、夜に電話で話したり、呼び出して近くの喫茶店で会ったりした。

また

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坂の上のささやかな幸せ

坂の上のささやかな幸せ

私が大学1年の途中から暮らしたアパートは、地下鉄池下駅から南になだらかな坂を上った丘の上にあった。
大学には自転車で通ったが、一度坂を下りてまた上るという繰り返しを2度ほどして、やはり丘の上に立つ校舎にたどり着いた。
名古屋の市街地で思い出深いのは、当然大学があった近辺や住んでいた付近だが、それ以外では今池である。

実は、名古屋の叔父が亡くなった時に、車で妻の道子と葬儀場のある覚王山に出かけた。

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さよならできない思い出たち

さよならできない思い出たち

「あなたに逢いたくて~Minssing You~」は、松田聖子の歌の中で、私にとっては特別な思いと重なる歌だ。
この歌に、別れた後のかながこう思ってくれたら良いなという思いと、自分自身のかなへの思いが重なってくる。
ひとりほろ酔いコンサートでいつも涙してしまう歌だ。

  二人の部屋の 扉を閉めて 思い出たちに“さよなら”告げた

かなは別れることを決めると、ふたりの住んでいたアパートをためらうこ

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名古屋 花ある日々

名古屋 花ある日々

今は名古屋を馬鹿にする人はいないだろう。
ふたりがいた頃の名古屋は、大いなる田舎として、タモリなんかにからかわれていた。
私には今の発展した名古屋よりも、昔の都会らしからぬ名古屋の方が好きだ。
学生時代は運転免許など持っていなかったので、移動は常に地下鉄かバスだった。
トヨタの影響で、道路はだだっ広く、歩いて渡るのには負担だった。
かなとふたりで出かけたのは、栄の繁華街や大須、そして大学の近くの東

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「砂の城」にあふれる涙

「砂の城」にあふれる涙

浜田省吾のアルバムSand Castleをよく聴き始めたのは、かなと別れてしばらく経ってからだった。
どの曲にも恋愛のいろんな場面が身近に感じて、ふたりの姿と重ねてしまうものが多かった。
ステージで歌おうとは思わなかったが、飲んでスナックやカラオケで歌ったり、ひとりでギターで歌ったりした。
浜田省吾の歌を歌う時には必ずかなのことを思い出していた。

かながまだ大学にいた頃の歌としては、「散歩道」の

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何も恐くなかったあの頃

何も恐くなかったあの頃

かなと週末過ごした私の住むアパートで、まるでかぐや姫の「神田川」の世界が展開された。
よく指摘されているのは、神田川の作詞喜多條忠は本当は同棲経験が無いのではないかということだ。
それは銭湯に一緒に行って待たされるのは、実際はたいてい男の方だからだ。
私の場合もそうだったが、しかし、歌詞の男女を逆にすればまるっきり情緒を失ってしまう。
作者の経験云々では無くて、銭湯帰りの優しさに包まれた情景を描け

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二度と逢えぬ人との想い出話

二度と逢えぬ人との想い出話

死ぬまでにもう一度巡り歩きたい場所は、大学時代に想い出を刻んだ、名古屋を中心とした中部地方だ。
たった、4年間過ごしただけなのに、ぎっしりと想い出が詰め込まれている。
どこに行ったとしてても想い出は蘇ってしまう。
だから、あえて妻・道子とは行くことが躊躇われる場所となってしまった。
テレビを見ていて、かつて行った場所が映し出されると、道子にはかなと行った時の話をしたりする。
当然、かなと言う名前は

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ときめきの隣席

ときめきの隣席

沢田知加子の「会いたい」では、二人は教室で机を並べていた。
しかし、私はかなと机を並べて学んだ記憶が殆ど無い。
むしろ、片思いだった百合恵とは並べて学んだ記憶があり、それ以外に憶えているのは、一郎さんの奥さんと並んでフランス語を勉強したことだ。
一郎さんのお母さんは有名な作家で、彼のことは「一郎物語」としてドラマ化されて、ちょうど放映されていた。
それで北山大学のことは、当時はよく知られていたのだ

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もう一度 グリーンエリアで

もう一度 グリーンエリアで

私の通った北山大学は、名古屋の東のなだらかな丘陵に校舎が建っていた。
私の叔父が名古屋に住んでおり、その叔父を頼って現役の時は名古屋大学を受けたが失敗し、浪人してこの大学を念のために受験した。
北山大学への受験対策はなにもせず、英米学科もリスニングがあることは願書を出す時に知った。
もちろん、英米は不合格で、人類学科は浪人して唯一合格した学科となった。
結局、国立大学や早稲田大学には落ちたので、人

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恋花火

恋花火

天声人語で中島らものことが書いてあった。
彼は有名な超進学校の灘校の落ちこぼれだった。
音楽と恋愛と芸術に生きた彼こそ、私にとっては崇拝すべき人であったが、その死に様は哀れに思っていた。
私は平凡な進学校の落ちこぼれだ。
中学部に入った時に教師から、144人中50番以内にいたら、東大京大に入れると言われていた。
その圏内に、中学部の2年生まではいた。
学年の実力テストは数学で最高得点をとった二人の

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剣かペンか 決め手は愛

剣かペンか 決め手は愛

私は小学生の頃から、剣道少年団に入って、剣道を習っていた。
習うと言っても、きちんと指導者がついていたわけでは無く、自分たちで適当に練習していた。
それでも、そこそこ強くて、校内の大会で学年優勝したり、市内の大会の個人戦に出されたりしていた。
熱心な指導者がついてくれた頃には、中学受験を勧めてくれた担任先生に辞めさせられた。
私立学校の中学部では少し経験があるので、剣道部に入って1年の夏休みの合宿

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途切れたミュージシャンへの道

途切れたミュージシャンへの道

大学へ入って、何はさておき軽音楽部に入ったが、中学高校と気のあった仲間と組んでいたバンドとまるで違った。
自分の嗜好の合いそうな、既存のバンドに入って先輩から指導を受ける形だった。
私は音楽ジャンルの知識は乏しかったので、とりあえずボーカルを強く求めているバンドに入れて貰った。
先輩のテクニックは、今まで経験していたレベルを遙かに超えていて、その中で1年ながらメインボーカルをつとめさせては貰っては

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