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年功序列という便利で非合理的なシステム

私は現在、イギリスのウェールズにあるサウスウェールズ大学の大学院でスポーツコーチングについて学んでいる。イギリスに来てからは約1年、こちらでサッカーの指導を始めてからは約半年になる。その中で感じた日本とイギリスの指導現場や選手・トレーニングの違いについて発信していきたい。今回のテーマは「年功序列」について。


年功序列とは

日本には年功序列というシステムが存在する。年功序列とはインターネットで調べると以下のようなことを意味する。

「年功序列」

勤続年数や年齢が増すに従って地位や賃金が上がること。

出典:デジタル大辞泉(小学館)

私がイギリスでコーチングを学ぶようになってから日本との一番大きな違いを感じたのが年齢に関する部分である。年齢を意識しすぎるあまり、日本ではより良い才能、より良いアイデアを潰してしまう傾向にあるのではないかと考えている。私がイギリスで経験した実体験を踏まえて、年功序列という考え方と選手を指導する際に現れる影響について述べていきたい。

私はイギリス留学に来る以前は高等学校の教員をやっていたのでこのシステムの影響をもろに受けていた。民間企業では、これらの考え方は古い考え方であると認識され、給料形態や役職の有無などの選考方法を工夫する企業も増えてきている。一方で、未だに根強くこの考え方が日本に残っているのも事実である。このシステムが象徴するように、日本では人と接する際に年齢を気にする傾向が強い。特に自分の意見を伝える際に、年齢が自分より上の人、もしくは立場や身分が自分より上の人に対して、「自分の意見をうまく伝えることができない」、「自分の本音を相手に伝えることができない」、このようなことは誰しもが経験したことがあるのではないかと思う。年齢を気にして接することには当然メリットも多くある。目上の方へ敬意を持つことや、接し方を学ぶ意味ではとても良い考え方だと思う。しかし、この考え方を強調しすぎるあまり、年齢など関係なく、誰もが対等に意見を述べることができる環境を作ることが難しいのではないかと考える。日本のサッカーの指導現場、特に育成の指導現場に関しては、似たような現象が多くの現場で起きているのではないかと私は考えている。育成年代の指導者はほぼ100%の状況で選手より指導者のほうが年上という構図が生まれている。あなたの指導現場ではどうでしょうか?選手と対等に意見を伝えあえる環境になっているでしょうか?

この問題は日本社会、そして日本のサッカーの成長を止める大きな要因になるのではないかと私は考えている。

存在しない「年齢」という壁

イギリス人は直接的に意見を伝えず、少し遠回しに意見を伝えるという日本人らしい文化を持っているという話を渡英する前は聞いていた。それでも、イギリスに来て私が感じたのは、とにかく自分の意見を主張する人が多いということだ。それは年齢に関わらず、相手が年上やコーチであろうと10歳の子供達でさえ主張すること、意見を伝えることを厭わない。
私は、自分が通っている大学と提携しているチームのU10の選手(9〜10歳の選手で構成されるチーム)を指導している。
トレーニング、ミーティング、ゲーム間のチームトークなどでコーチが選手に対して質問を投げかける機会がよくある。日本で指導をしていた時も、選手の意見を引き出したい、主体的に取り組んでもらいたいという気持ちがあったため、このような機会はよく設けていた。しかし、日本の指導現場では選手が積極的に意見を出すシーンはあまり見かけず、とても消極的な印象を持っていた。私が現在指導しているチームでこれを行うと、選手の意見は止まらなくなる。とにかく自分の意見を伝えたい、聞いてほしいという思いが伝わってくる。戦術ボードを使い始めたら、自分たちで勝手にコマを動かし始めて収集がつかなくなる。そして、それらの意見は非常に論理的な意見が多い。「ボールを持っている選手に近づくことで相手がついてくると背後にスペースができるのでその後走る方向を変えて背後に飛び出せばマークを剥がすことができる」「最初に背後にでることで相手が下がるから、その後、ボールを持っている選手に近づけばマークをはがせる」「自分が動いて作ったスペースにもう1人の選手が飛び込めば作ったスペースを活かすことができる」。正直、日本では10歳の選手がここまで具体的に自信をもって自分の意見を伝えることができるだろうか?当然、私と選手の意見が食い違うこともある。日本の育成年代ではあまり選手がコーチに対して自分の意見を曲げずに主張するということはめったにない。しかし、ここではそれが頻繁におこる。私が経験した一つの事例を紹介したい。

私が指導しているU10チームは試合の日にチームを2つに分けてゲームを行っている。その日はたまたまキーパーが1人しか試合に参加しておらず、1つのチームはゴールキーパーをフィールドプレーヤーが担当しなければいけない状況だった。私は日本で指導していたときの感覚で選手に問いかけをした。「誰かチームのためにキーパーをやってくれないか?」。当然1人に任せるのではなく、1試合の半分でキーパーを交代すること、つぎのゲームでは前の試合でキーパーをやっていなかった人から次の試合のキーパーを決めることを説明したうえでこの問いかけをした。日本だったら、だいたいここでお互いが気を使い、誰かが手をあげて、スムーズにキーパーが決まっていきそうな感覚があった。しかしここでは一向にキーパーが決まらなかった。彼らの主張はこうだ「俺がFWをやらなかったら誰が点を取る?俺しか点を取る選手はいないだろ。だからおれはキーパーをやらない」「今日はDFの選手が少ない、だから私はキーパーではなく、DFとして試合に出るべきだ」。私と選手、それぞれの主張は続いたが全く決まる気配はなかった。正直、私はこのような経験を日本であまりしなかったのでかなり困惑した。もう1人のコーチがその様子を見て、これはジャンケンをさせて強制的に決めないと絶対に決まらないとアドバイスをくれたおかげでようやくキーパーが決まった。試合終了後、キーパーをやってくれたFWの選手は私に文句を言ってきた。「なぜ自分がキーパーをやらなければいけなかったの?」。私は、誰かがキーパーをやらないと試合が成立しなかったということ、他の選手も平等にキーパーをやる可能性があったことをもう1度説明したが、その選手はまったく納得している様子は見られなかった。

このような事例のように、こちらでは相手がコーチだから、相手が大人だからということは関係なしに自分の考えを主張する。良くも悪くも正直で、遠慮がない。このような傾向は様々な場面で見られる。私の話が面白くない、または、興味がなければまったく話を聞かない。練習がつまらなければ心底楽しくなさそうに練習し、ときに参加することさえやめる選手もいる。おそらく日本の子どもたちであれば、コーチに対して、我慢をして話を聞く、練習に取り組むということが当たり前になっている。私はこのような経験は日本ではほとんどすることがなかったので正直適応するのに苦しんだ。それと同時に自分の指導力の無さを改めて痛感している。


日本の指導現場で感じた違和感

前述した通り、イギリスで苦い経験をしているときにふと思ったのは、私自身が日本にいたときに、いかに指導をしている、もしくはそれなりに指導ができていると勘違いをしていたかということだ。サッカー部の顧問として部活動の指導をしていたときは自分がこのような感覚を頻繁に持つことはあまりなかった。しかし、今となって考えるのは日本で指導していたときの子供達は本気でサッカーを楽しんでいたか?上手くなっていくことに喜びを感じていたか?気軽に私と意見交換できる環境づくりはできていたか?積極的に部活動に参加する姿勢は持っていただろうか?今考えるとこれらの答えはNoと言わざるを得ない。おそらく彼らは、心底サッカーを楽しんでおらず、本当に風通しの良い環境でサッカーをすることができていなかったのではと思う。それが、時に垣間見える彼らの消極的な姿に繋がっていたのではないかと今では理解することができる。

そもそも、イギリスと日本では文化や教育システムが異なるため、同じようにやっていても日本の子ども達が勝手に意見を述べることができるようにはならないだろう。つまり、日本の指導現場では、選手が意見を述べやすい、もしくは議論をし易い環境を指導者が意図的に作らなければならない。ときには年上である指導者がプライドを捨てて、選手と同じ目線に立って対話をすることも必要になるだろう。


自分の意見を述べる(主張する)ことの重要性

自分の意見を述べる機会が増えることで、自然と思考は批判的で論理的なものになっていくだろう。イギリスの子どもたちは10歳であろうと彼らなりに彼らなりの思考を持って意見を述べている。おそらく意見を述べるための指導を受け、トレーニングをしたわけではなく、自然と頭の中では、「なぜ?」「どうして?」「どうやって?」という疑問を持っている。それは単純に発言をする機会が多いことから自然に身についていると考えられる。これは、サッカーをプレーする上でとても重要な思考になる。現代のサッカーでは戦術的な要素も非常に重要なものになってくる。試合中に監督やベンチからも様々な指示がでるものの、ピッチレベルにおいて、選手がどのように判断しプレーを決断してくかという能力は、その選手の技量を図る1つの要素となる。「どのように相手はプレッシャーをかけてきているのか」「どこの選手が空いてくるか」「どこにスペースが生まれるか」「どのようにボールを運べばよいか」。普段から主張することに慣れ、頭の中で批判的に、論理的に物事を考えられる選手は、試合中でもこのような判断を早くすることができるだろう。しかし、自分で主張すること、批判的で論理的な思考を持つことができていない選手はプレーの中でも判断をすることが遅れ、指導者から指示が出るまで自分のプレーを変えることができなくなってしまうのではないだろうか?いざピッチに送り出されたときにどちらの選手がより柔軟に適応し素早く判断を下すことができるようになるかは明確である。


まとめ

日本にいるときはあまり経験しなかったが、正直に言うとイギリスの子どもたちは、ときにコントロールすることが難しく、練習が成り立たないということも何回か経験した。いかに自分が日本にいたときは、指導できている気になっていたかということをこちらに来てからは感じることが多い。同時に私は実際にいくつかの才能や彼らの意見を潰してしまっていたのかということも考える。

これらの違いは日本人の「年功序列」の文化が一つの要因になっていると私は考えている。「年功序列」というシステムは年齢が上の人からすると、とても便利なシステムである。なぜならあまり工夫をしなくても、自分の地位や給料は上がり、年下の人たちは多くの人が自分の意見に従うからである(当然、そのような大人だけではないし、それに頼らないすばらしい人間性や学習意欲を持った方もたくさん存在する)。このような文化は日本の若い才能や、自分を主張しようとする習慣を奪ってしまっているように思う。しかし、世界に出てみると、それは当たり前ではなく、むしろ日本人の弱点になり得る可能性がある。イギリスにきて初めて年功序列という考え方が薄い環境に身をおいたことで、自分がいかに指導者として、人間として未熟であったかをひしひしと感じている。今後、日本のサッカーが、もしくはサッカーだけではなく様々な分野で多くの日本人が活躍する姿を見るためには、このような年齢を重んじすぎる傾向を大きく変えていく必要があるかもしれない。皆さんの指導現場ではどうでしょうか?



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