見出し画像

平坂のカフェ 最終話 四季は太陽(4)

 カナを引き取ることに夫は、反対しなかった。
 むしろ会ったことがないとは言え、身内でそんなことが起きていたことに気づかなかったことを恥じた。
 それから児童相談所や行政の力も借りて無事に特別養子縁組をすることが出来た。
 本当は、その時に"カナ"と言う名前も変えてしまいたかったがその時にはもうあの子自体がその名に馴染んでしまっていたので出来なかった。

 カナは、とても頭の良い子どもだった。

 8歳まで言葉も話せないくらいに知能が低かったのに児童相談所が教えてくれた発達支援センターに通って半年くらいで言葉と平仮名や片仮名を書くことが出来るようになり、簡単な数の計算が出来るようになった。
 我が家に来た時はトイレにも1人で行けず、いや仕方が分からなかったのにやり方を教えたら直ぐに覚えて、箸も持てるようになり、お風呂で身体を洗えるようになった。
ご飯も好き嫌いしないで食べるから肉付きも良くなり、左目も見えるようになった。
 しかし、身体の傷痕は消えず、右目は白いままだった。
 私は、カナに可愛らしいピンクのカーディガンと眼帯を買って上げた。
 カナは、ピンクのカーディガンを見てとても驚いた顔をしていた。
「可愛いでしょ。女の子はやっぱりピンクが好きよね」
 私がそう言って笑うとカナは、不思議そうに首を傾げる。
「女の子?」
 カナは、自分が女の子だと言うことも知らなかったのだ。
 その事実に私は、カナの見えないところで泣いた。

 学力が年齢相応に追いついたカナは、10歳で学校に通えるようになった。
 カナは、学校に休まず通い、勉強もスポーツも他の子に負けることのないくらいしっかりと取り組んでいた。
 しかし、それだけだった。
 カナは、他所の子みたいに「顎骨でこんなことがあった」とか話すこともなく、友達と遊びに行くこともなかった。
 ただ、ルーティンのように学校に通うだけだ。
 そこには楽しみも喜びも拒否もない。
 ただ、無関心なだけだった。
 そんなカナに私はどう接したら良いのか分からなかった。
 彼女の心の傷は計り知れない。
 下手に触れてせっかく塞がりかけた傷が開いたらどうしようと思い、それ以上踏み込むことが出来なかった。
 夫に相談すると今は見守っていこうと言われた。
 夫自身もカナとどのように接したら良いか分からないでいるのだろう。
 それからもカナは、無関心なままに学校に通い、生活を送った。
 唯一、スケッチブックに黒い色鉛筆で空の絵を描いている時が夢中に、そして楽しそうであった。
 ひょっとしてこの子には学校も私たちも必用ないのかもしれないと思った時もあった。
 誰にも関わらず1人の世界で生きていくことがこの子カナの幸せなのではないか、と。
 それが違うと気づいたのは6年生の時だった。
 醤油が切れていることに気づいた私は、カナに「買い物してくるからお留守番してて」と言い、玄関に向かった瞬間、この家に来てから泣く素振りなんて見せたことなかったカナが大泣きして走って来て「行かないでー!」と私の腕を掴んだのだ。
 私は、驚いた。
 そして今まで買い物に行く時はカナと一緒に行くか夫がいる時に1人で行くかのどちらかで1人で留守番しせたことなんてなかったことに今更ながらに気づいた。
 そしてこの子は、恐れているのだ。
 1人になってしまうことを。
 私は、カナをぎゅっと抱きしめた。
 カナは、嫌がることなくそれを受け入れた。
 この子を1人になんてしない。
 どんなことがあってもこの子を守り抜くと改めて心に誓った。

 小学校を卒業し、中学校も特に大きな問題もなく無事に卒業した。
 しかし、問題がなかったと言うことを私は素直に喜べなかった。
 問題がない、と言うことはカナが今も変わらずに人と関わろうとせずに距離を置き、他人はおろか自分にも無関心であると言うことだ。
 それは思春期と呼ばれる高校生になってから如実に現れ始めた。
 高校に入学してからもカナは、何も言わずに真面目に授業に出ていた。
 それこそ判を押したように規則正しく、毎日決まった時間に出て、決まった時間に帰ってくる。友達と遊ぶとか寄り道するなんて年相応のことは一切することなく。
 しかし、それは自宅から高校までの行き帰りだけの話しで実際には授業をサボってプールの裏に隠れて空の絵をずっと描いていたらしい。
 高校の担任から呼び出されて話しを訊いた私は、まったく把握していなかったことを恥じ、退学だけは勘弁して欲しいと願いでた。
 高校も進級をさせるのは出来ないが退学までは考えてないから安心して欲しい、と言われた。
 カナに何で授業に出なかったのか聞いた。
 ひょっとしてイジメにあっていたのではないかと思うと胃が冷たくなる。
 しかし、カナから返ってきたのは「学校に行く意味が分からない」と言うものだった。
 やはりこの子は他人にも自分にも関心を持てないのだ。
 だからと言ってどうしたらいいか分からない。
 私から言えたのは「高校は卒業しよう」と言う至極ありふれたことだけだった。
 私は・・・母親失格だ。

 そんな掴みたくても掴めないカナとの生活に変化が現れたのは本当に突然だった。
 夕食を終えて洗い物をしている私の前にカナが寄ってきた。
 最近は、ご飯を食べたら直ぐに自分の部屋に行ってしまうのにこんな事はいつ以来・・・いや初めてではないだろうか?
「どうしたの・・・」
「うんっその・・・ね」
 カナは、恥ずかしそうにモジモジと指を動かす。
「お弁当の量・・・少し減らして欲しいの」
 私は、手が冷たくなるのを感じた。
 もう私のご飯も食べたくなくなってしまったのか?
 そんな私の表情を読み取ったのか、カナが大慌てで首を横に振る。
「そうじゃないの!最近ね・・・頼んでもないのに私にご飯を作ってくる奴がいてね。それ食べちゃうとお弁当が食べれなくなっちゃうから・・・」
 私は、唖然とした。
 ありきたりな表現だが鳩が豆鉄砲喰らったような顔をしていたことだろう。
 カナが・・・?
 お弁当を一緒に食べてる?
 しかも手作り?
「それは・・・お友達?」
 自分でも分かるくらい声が震えている。
 カナは、首を傾げる。
「・・・分かんない。とりあえずしつこい奴」
 とりあえずしつこいってどう言う意味?
「その人は・・・大丈夫なの?」
 ひょっとして変な人に絡まれているのかもしれない。
「変な奴だけど悪い奴じゃないよ」
 カナの声からは、危険な種類への警戒を感じられなかった。
 確かに危ない人だったらカナがこんなに平静としているはずがない。
「そう。ならいいけど・・・お腹一杯になっちゃうならお弁当じゃなくてお小遣いにしようか?足りなかったら購買でかえ・・・」
 私が言い終える前にカナは、首を激しく横に振って拒否する。
「お弁当・・好きだから止めないで」
 私は、胸が締め付けられた。
 カナが自分の意見を言った。
 自分の意思をしっかりと伝えてきた。
 私は、嬉しさと喜びと混乱で呆然としてしまう。
 カナは、恥ずかしくなったのか、頬を赤らめて部屋に戻っていった。
 夫の方を見ると同じように呆然としてビールを溢していた。

 この日からカナは変化していった。

 高校であった事を話してくれるようになった。
 授業にもサボることなく出るようになった。
 そして友達と遊びに出かけるようになった。
 初めて友達と遊びに行く時、「友達と遊ぶってどうすればいいの?」と聞かれた時、切なくなると同時にそんな風に私を頼ってくれるのがとても嬉しかった。
「気にしないで心の向くままに楽しめばいいの!」
 私がそう言って一万円渡すとカナは、とても驚いた顔をしていた。
 今まで何の欲も持たずにお小遣いすら使わなかったんだからこのくらい安いものよ。
 しかし、お昼ご飯は友達ではなく、その変な奴と食べているようだ。
 しかもその変な奴に絵を褒められたから美術部に入ったと言うのだ。
 一体、誰なんだろう?と当時は気になって仕方なかった。
 カナは、絵にのめり込んでいった。
 元々、絵は好きだったがそれは趣味とか楽しみではなく、それをしないと落ち着かないからやっていたと言う精神の安定の為と言う感じだった。しかし、今は違う。生きる為の、人生の中で初めてやりたい事、生きがいを見つけたかのように集中していた。
 そして顧問の勧めもあり、カナは1枚の木の絵をコンクールに送り、見事、奨励賞を扉貰ったのだ。
 カナは、恥ずかしそうに、身体を小さくしながら私達に報告してきた。
 私は、あまりの嬉しさにカナと夫の前で大号泣してしまった。
 それを見てカナは、困ったように、嬉しそうにはにかんだ。
 カナが自分の為に笑ったのはこの時が初めてだった。
 そして忘れもしない高校3年生の春、カナは初めて私達に相談してきたのだ。
「絵に携わる仕事がしたい」
 そう話すカナの口調は、オドオドしたものではなく、しっかりと芯の座ったものだった。
 私も夫も何を言われているのか分からずフリーズした。

 えっ?ひょっとしてカナが自分のやりたいことを口にしてる?意思を出してる?私達に相談してる?

 カナが・・?あのカナが・・・⁉︎

 私と夫は、舞い上がった!
「いいわよ!自分のやりたい事をしなさい!」
「美大か⁉︎美大に行くのか⁉︎」
 カナは、私達の興奮具合に呆気に取られながらも小さく首を横に振り、「学費が高いからバイトしてお金を貯めてデザイン系の専門学校に行く」と言った。
 私は、初めてカナを怒った。
「学費のことなんて気にしなくていいから私達に甘えなさい!」
 そう怒るとカナは、左目と口を丸くした。
 驚いたのだ。
 カナがこんなにちゃんと驚くのを初めて見た気がする。
 カナは、私の発した言葉の意味をようやく理解することが出来たのか、小さく、本当に小さく笑った。
「ありがとう、お父さん、お母さん」
 私と夫は、顔を見合わせる。
 カナが・・・夫をお父さんと言った?
 カナが・・・私をお母さんと言った?
 夫の顔が歓喜に濡れる。
 私の顔も歓喜に濡れてそれは酷いことになっていることだろう。
 私たちは、カナを力一杯抱きしめた。
 カナは、恥ずかしそうに、嬉しそうに小さく笑った。
 私たちは、今日、本当に親子になったのだ。

 それから2ヶ月後・・・夏休み最後の日に本当の親子になった私達に最初の試練が訪れた。
 居間でテレビを見ながらスイカを切っていた私達のところに自室にいたカナが慌てて走ってきた。
 ちょうど、呼ぼうと思っていたところなので以心伝心出来たようで嬉しかった・・・が。
「お母さん!デートって何したらいいの⁉︎」
 カナの発した言葉の衝撃に私達はスイカで喉を詰まらすところだった。

 国産の白いスポーツカーに乗ってその男は現れた。
 夫曰く、男の子なら誰もが一度は乗ってみたいと思うスポーツカーらしい。
 見た感じカナと同じ年くらいに見れるがカナの事を「せんぱ〜い」と呼んでいるから年下なのだろうか?
 ぱっと見は溌剌とした印象の好青年に見える。
 私達は、家の窓から2人の様子を見守って・・・いや監視していた。
 あの男が何か良からぬ事をしようとしたら直ぐに飛び出せるように。
 夫にいたっては今日は仕事なのに有休を使って憎憎しく男を睨んでいる。
 男は、カナの服装を嬉しそうに笑いながら褒め称えた。
 昨日、カナと散々悩んで選んだものだ。
 あんな可愛い服持ってたんだとびっくりしたが友達に選んでもらったものらしい。
 カナは、恥ずかしそうに身を縮めている。
 そして2人は車に乗って出発した。
 私達は、ただ見送ることしか出来なかった。

 どうかカナが無事に帰ってきますように・・・。

 しかし、その願いは虚しく夜遅くに帰ってきたカナは泣きながら自室に入っていった。
 何か酷いことをされたのでは⁉︎私は慌ててカナの許可も取らずに部屋に入り、カナを問いただした。
 しかし、返ってきたのは予想外な言葉だった。

 彼にプロポーズされた。

 凄く凄く幸せで嬉しかった。

 でも、怖かった。

 どうしたらいいかわからなかった。

 だから、断ってしまった。

 カナは、小さな子どものように大声で泣いた。
 カナがここまで泣くのは買い物で留守番させようとした時以来かもしれない。
 同じ年の子よりも心が未成熟なカナの中で知らない感情が幾つも生まれて、ぶつかり合って、押し潰そうとしていた。
 私は、そっとカナを抱きしめる。
「大丈夫よ、カナ」
 私は、優しくカナの背中を摩る。
 いつの間にこんなに大きくなったんだろう?
 小さくて守ってあげなきゃいけなかったカナも少しずつ大人になっていっているのだ。
 そして大人になる為の経験を積んでいる。
「カナ・・・貴方は立派に成長しているわ」
 私は、泣き続けるカナの背中をそっとそっと撫でた。

#短編小説
#平坂のカフェ
#カナ
#成長
#失恋
#母親

この記事が参加している募集

眠れない夜に

忘れられない恋物語

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?