冷たい男 第4話〜束の間の死〜(3)
会社に戻ると社長が慌てて彼に駆け寄ってくる。
いつもは強面だが穏やかで人を安心させるような雰囲気を漂わせているのに今は顔の作りそのままに表情を強張らせ、額にはうっすらと冷や汗が滲んでいる。
「今日の夜に一組の客が来るから対応して欲しい」
社長の話しでは香り屋の女主人からの話しが終わった直後に依頼の電話が来たそうだ。
直葬だが火葬は無し。
葬儀もいらない。
しかし、遺体を霊安室に運んで欲しい。
代金は前払いで、しかも直送なのに一般葬の倍以上の額を前払いで既に指定口座に振り込んだと言う。
社長は、電話を切って急いで口座を確認すると口の中から目が飛び出るような金額が通帳に表示されていたそうだ。
社長は、直ぐに相手に電話し、そんなに貰えないと金を返そうとしたが、拒まれた。
尚も食い下がろうとする社長に電話の相手はこう告げたらしい。
冷たい男を今回の対応をお願いしたい、と。
「私も親父の代からこの仕事を手伝っているがこんな奇妙な依頼は初めてだ」
社長がこんなにも緊張しているのを初めて見たような気がすると彼は思った。
彼は、葬儀屋なんて仕事をしているが不思議な体験というのをこれまでしたことがない。可愛い一人娘の先輩の母が魔女であることは知ってるが気兼ねしたことは一度もない。むしろ同じ町で働く者として親近感が湧いてるくらいだ。
そんな彼が感じているのだ。
この依頼は怪しい、と。
「お願いしておいて何だが断ってもいいんだぞ」
「しかし、それでは会社の信頼が・・・」
社長は、首を横に振る。
「仕事の一つや二つ断ったってうちの会社はびくともしない。金もいらん」
そして真摯な目で彼を見る。
「そんなことより大切な社員に何かある方がよっぽど問題だ」
彼の心に小さく温かい火が灯る。
ああっ本当にこの人は素晴らしい人だ、と改めて思う。
彼は、口元に小さく笑みを浮かべて首を横に振る。
「いえ、やらせてください。指名を受けるなんて社員として誉ですし、私も先輩のお母さんから直に頼まれたので・・」
「そうか・・・くれぐれも気をつけてくれよ」
「はいっ」
彼は、そう言って微笑んだ。
そして時刻は、現在に戻る。
彼は、霊安室の隅にある椅子に老婆を座らせると今日仕入れたばかりの緑茶を淹れて渡す。
翡翠のように澄んだ緑茶からカモミールのような甘く温かい香りが溢れ、頭の中に白い花畑を想像された。
老婆は、受け取った温かいお茶をじっと見つめる。
彼は、遺体の奥にある祭壇に水の入ったコップを置き、線香に火を付ける。
白い煙がゆっくりと立ち昇り、霊安室の中を蛇のようにぬるりっと漂う。
よく見ると白い煙の中に青や緑、紫の埃のように小さい粒が浮かんでいるのが見える。粒は煙に乗って小さく弾けると、木々や花、そして水の香りが広がっていく。
それは殺伐とした重い空間を少しでも和らげてくれるかのようだった。
彼は、遺体の男性に白い布を掛けようとして改めてその顔を見る。
ひどい傷だ。
痣に裂傷、擦過傷、鼻骨は曲がっていて、眼底も凹んでいる。頬骨も折れていることだろう。
何をどのようにすればこれだけの傷が出来るのであろうか?
交通事故?
飛び降り自殺?
それとも暴漢?
だが、何よりも驚くのはこの男性の若さだ。
隅の椅子に座って緑茶をじっと見つめる老婆は男性を父と言った。
どう見積もっても80は超えているだろう老婆が男性を父と言った。
普通なら悪い冗談だ、と一笑に伏されるだろう。
しかし、普通ならと割り切るには彼は様々な経験をし過ぎていた。
「貴方は、笑わないのね」
老婆が小さな声で言う。
彼は、顔を上げる。
老婆の顔は、緑茶と線香の香りのお陰かここにきた頃よりも幾分和らいだように見える。
しかし、それでも草臥れた印象は変わらない。
目は窪み、頬は痩せこけ、顔色も浅暗く良くない。髪も脂でベタついている。下手に身に纏う着物が上等なものなだけにその異質さは際立っていた。
「私とその人が親子だと言うとね。皆んな笑うのよ。ご冗談をって」
老婆は、そっと隣の椅子に湯呑みを置くと立ち上がってこちらに近づいてくる。
その歩き方は、とても静かで品があった。
「私に結婚歴がないことは皆んな知ってたから燕を囲ってるとでも思っていたのでしょうね」
老婆は、遺体の前に立つと男の髪を優しく撫でる。
「でも、貴方は違うわ。貴方は全てではないけど私の言うことを疑いはしなかった」
「分かるのですか?」
「長く生きるとね。肉体の感覚は鈍るけどその他の部分は鋭くなるのよ。私のような凡人でもね」
そう言って小さく笑う。
「私も凡人ですよ。ただ普通の人よりも変わった経験をしてるだけです」
「とても貴重なことよ。何よりも財産になるわ。大切なさい」
「はいっ」
彼は、真摯に頷き、そして改めて老婆に向き直る。
「それではもう一度お伺いしますが、"束の間の死"とは一体どう言う意味なのでしょうか?」
彼の問いに老婆は、遺体の髪の毛を撫でるのを止める。
そして顔を上げて冷たい男に目を向ける。
その目に浮かんでいたのは憂い、悲しみ、そして僅かな希望・・・。
「その言葉通りよ。貴方の力で父に少しの時間でもいい。死を与えて欲しいの」
「死・・・」
彼は、小さく呟き、傷だらけの遺体を見る。
「もう死んでるのではないのですか?」
彼の問いに老婆は、首を横にする。
「彼は、死なない。いや、死ねないの。死ぬために必要な寿命を全て私にくれたから」
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