自分のスキはコントロールできる

今日は「当たり前だけど、大切なことなので、何度も言います」系のnoteを書こうと思う。

自分のスキはコントロールできる

noteを書いていていつも思うのが、他者からのスキはコントロールできないということだ。前も同じようなことを書いたけれど、自分が良いと思うものは必ずしもスキが多くない。「だから何だ」という話なのだけど、スキを増やすために「他者のスキ」にすり寄るように書いた結果、「自分が良いと思わないもの」を書いてしまうと、それはとても危ないことのように思う(言うまでもなく、両者のスキの重なる場所を目指すことはとても素敵だと思う)

(自分がスキではない、他者にすり寄ったものを書いた結果)「スキが少なかった時」のことを考えると目も当てられない。
一方で仮にスキが少なかったとしても、読み直した時に「自分は、このnoteがスキ」と胸をはって言える内容であるなら、きっとその事実が自分を救うのだと思う。

「自分のスキはコントロールできる」。ならばコントロールできるものに注力すべきだし、その結果「誰かのスキ」と重なることができれば、とても素敵だ。

論理を飛躍させまくると、これは人生にも同じことが言える

こういうことを言うと「自己満足、お疲れ様です!」と頭を下げられるかもしれないけれど、それを言い出したら「人生なんて所詮、自己満足以外の何物でもないじゃないか!」と言い返したくなる。論理を飛躍させまくるけど、これはつまり人生にもそのまま当てはまる話なのではないだろうか。

結局、人生が成功するかどうかも「運とタイミング」に大きく依存するわけで、それはコントロールできないことだ。(もちろんコントロールできることについては、一生懸命努力すべきだと思うけれど)

他者にすり寄ることを優先し、自分がいいと思わない物語を生きた結果、それで失敗してしまったとしたら、何と空しいのだろう。他者だけでなく、自分からもスキと言ってもらえない物語を生きてしまうことは、とても恐ろしいことだと思う。

結局自分の人生に責任を持てるのは自分だけだ。他者の描いた物語を生きた結果、仮に失敗してしまったとしても、その物語を推薦した「他人」は、きっと「我、関せず」といった顔をしているに違いない。

であれば、仮に失敗したとしても「自分は、この物語がスキだ」と胸を張って言えるような人生を生きるのであれば、それはきっと死ぬときに「及第点はとった」と言える人生になるのではないか。少なくとも後悔はきっと減ると思う。

「自分のスキはコントロールできる」

「コントロールできることをいかにコントロールしきるか」が大切だと改めて思った。

当たり前だけど、大切なことなので、何度も言います。

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