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映画館の外へ

 トーマス・ハイゼ監督の映画『ハイゼ家 百年』を観た。旧東ドイツを出自とするドキュメンタリー作家が、自らの家族の歴史とともにドイツ百年の歴史を見つめ直す全五章、三時間三十八分の大作だ。遺された文章、手紙、写真、音声、映像からの引用を再構成した複雑なコラージュであり、監督みずからの声のみがひたすらに歴史の誤謬を語る壮大なモノローグでもある。引用のはざまに生じる歪みさえもが、人類が謳う進歩そのものの歪みのようにも思える。本編のなかには、クリスタ・ヴォルフからの手紙やハイナー・ミュラーの肉声も織り込まれている。ベルリン国際映画祭フォーラム部門カリガリ賞受賞が過褒ではなく、真の意味で映像を駆使した文学作品といえる。

 映画館で映画を観るとなると、億劫なのと観たい作品を選びかねて、行く機会はそれほど多くはない。とはいっても、映画館で映画を観るのは好きだ。映画館には個人的な楽しみが、いくつかある。
 たとえば、目当ての上映の入場が始まるまでを過ごす時間。マルチプレックスであれば館内にカフェスペースが、あるいは喫茶店が併設されていることもめずらしくない。コーヒーもいいが、ビールがあるとなお良い。一杯だけ飲みながら時間つぶしに本を読んでいると、それだけで心地よくなってくる。これから観る映画に対して傾けられたやや前のめりな期待も、読書への興味とアルコールの酩酊感とで、ちょうどいい按配になる(ような気がする)。
 映画館では、映画を観ることのみに集中できるのもいい。劇場内は、それだけで一種の非日常的空間だ。そこでは、映画を観ることのみが唯一の、ただしい行いである。日常の様々なこと、悩みや煩いも、映画館では考えなくて済む。作品が長大であろうが難解であろうが、スクリーンでならなんとか息切れすることなく観終えることもできる(し、できないこともある)。
 何より、映画を観終えて映画館から外に出た時の感覚は言い表しがたい。日常に帰ってきた筈なのに、まだ夢から醒めやらぬかのように鈍く頭をもたげる痺れ。これが休日の昼下がりであれば、映画館の暗がりから外に放りだされると、一切が白日の下に見た夢であったかのように思えてくる。モノクロ映画は言うまでもなく、どれほどの映像美を謳う作品を観たあとであろうが、映画館を出て目の当たりにする世界、その彩度の高さにはいつも視覚情報の処理が追いつかなくなる。しかし、それさえもが快楽的なのだ。

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 映画館のことを考えてしまうのは、間違いなく山田稔『シネマのある風景』(みすず書房)の印象を引きずっているからだ。神戸の古書即売会で購ったあと読みさしのままではあるが、まろやかな読み味はまだ記憶に新しい。すぐれたエッセイのなかには、そこに書かれている対象に憧れを抱かせる引力を持つものがある。『シネマのある風景』も、そういう一冊のようだ。同書には、映画の内容だけでなく、観終えて映画館を出たあとの描写がそこここにある。

 すぐれた映画を見おわった後のしあわせな気分のまま近くのビアホールに入り、立ち飲み用円卓でスタウトを注文する。立ったままでのどを潤すひとときの、自由の感覚がこたえられない。それは以前、パリのカフェのカウンターでビールを立ち飲みしていたさびしくしあわせな日々を思い出させる。
山田稔「寡黙のドラマ」


 ここに書かれている一連の挙措は、映画を観たあとの理想的な過ごし方のひとつといっていいだろう。映画を観る前のビールもいいが、映画を観たあとのビールは言うまでもない。こう書くと、ただ酒が飲みたいだけのようになってしまうが、仕方ない。映画を観たあとの感覚は一種の酩酊と似ている。逆説的ではあるものの、現実に回帰するために、よりつよく酩酊を求めるのだ。

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 普段映画にまつわる(とくに映画館にまつわる)エッセイを読むことはそれほど多くないのだが、意外な本のなかで映画館への言及を見つけた。

ジャコメッティは或るインターヴュウのなかで、或るとき映画館を出て通りに出たとたん、現実の街を歩いている人々から強烈な衝撃を受け、それが彼のヴィジョンに忘れがたい変化をおよぼしたと語っている。私は映画館の中でいつも居眠りをするわけではないが、映画館を出て街頭に出た瞬間、ジャコメッティが感じたであろう驚愕やショックがよくわかる。日比谷の通りに出て真先に眼に入るのは人の往来と足もとの舗道である。騒音と遠近とビルとビルとの谷間の上に青く撓んだ空である。私は次々と行き違う人々や遠くを歩む人々を誰一人見知っていないが、彼らは私と同じ肉体をもち、同じように生き、同じ通りを歩いている。彼らもまた同じように往き交う人々を見、同じように互に互を見知らず、同じようにともに生きていることを知っている。
宇佐見英治「青い洞窟」


 宇佐見英治が最も精力的に執筆をしていた時期の著作で、第20回藤村歴程記念賞を受賞している点においても代表著書と呼んでよいだろう『雲と天人』(岩波書店)の一編から。孫悟空から映画館を経て秋吉台に至るという、いかにも著者にしか書き得ない見事なエッセイだ。

 同じように映画を観終わって映画館を出たあとでも、ひとによって、これほどまでに感覚は異なる。
 山田稔が非日常に浸った余韻を日常のなかで味わっている。観終わったあとも、非日常は続いているのだ。だから、ただビールを飲んでいるだけでも、特別な感覚を有する。
 対して、宇佐見英治は帰ってきた日常への烈しい違和を覚える。視覚と聴覚のみに支配された非日常の体験を経由することで、却って日常に向ける眼差しが研ぎ澄まされていく――などと顰め面でそれらしいことを書きつつも、上映中に居眠りをする宇佐見英治に共感を覚えてしまうのだった。

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