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競争には99%勝つことができない

「不自由な男たち」というのは殆ど〈形式名詞的〉だ。不自由な男は、男内部に存在している一部分でもあれば、男社会に存在している男の一部分でもある。このタイトルは、実質的に中身がない。ネガティブなタイトルに惹かれて購入を迫られる消費者に向けることで、空虚な意味を得ることが出来るような、無意味な〈形式名詞〉だ。しかしながら、このような空虚な意味を、ある意味で明確な当事者意識をもって目にすることが出来る男たちは多いのではないか。中身のないような、空虚であるような、非-現実的であるような、過大的主語でしかないようなこの言葉に、よく分からずに惹かれる人も多いのかもしれない。

まず、その不自由さを体現しているのが、まさに実際に対談をする2者によってであり、「人間としての生きにくさ」がありありと、皮肉にも表現されている。人は自己と他者を相対化し、その内で他者を評価し、自己の価値基準として無意識的に落とし込みがちであるが、そのさまを明瞭に見て取れてしまうのだ。


「日本百名山」を趣味にする男性は何かを達成しないと気が済まないことの現れだ。

「日本百名山」を趣味にする中年男性が居てもいい、というのが普通の発想であろう。しかしながら、この趣味については、そもそも「趣味」とはどういったものか、というところから「不自由さ」を感じ取ることが出来る。まず、小島さんの言い分としては、この男特有の趣味である「日本百名山」という趣味が、フルタイム勤務を押し付けられてきた呪縛であるのではないか、という言い分である。新卒から40年間の間、男は社会から「男とはなにか」という呪縛に付きまとわれ、そのなかで「男」として成り上がる、または男を成立させるためには、常に《達成目標》をクリアする必要があり、その《達成》という呪縛が、この定年後の趣味として現われてくる、というのである。この趣味は、フルタイム勤務の空虚な40年間のせいで、「何者かであらねばならない」という男の自己欲求が形成されてきた証でもあるのだ。簡単に否定するのであれば、これはただの1例に過ぎない。もしくは、小島さんの色眼鏡によって脚色に脚色された、「男」という概念の端緒を伺い知ることが容易に可能だ。


人生の仕事という仕事が全て終わった後の夫婦は、どのようにして「特別な存在同士」であり続けるか。【年収や役職の肩書】もないのに。

女としての困難さを訴える一方で、その女の困難さというものが、「女自身の自己実現的成就」に繋がってしまったのではないかということ、そして、その女の生きづらさという事実に目を背けるために、男に重荷を担がせてしまったのではないか、要するに、男と世帯に入ることで「主婦」に変貌することでフルタイム勤務を引退し、男に対して無意識的に収入源である仕事を強要してきてしまったのではないか。そしてそれが、性差職別役割を不本意にも加速させてしまっているのではないか、といった問題定義だ。男/女という、生物学で語られるべき領域の二分法しか踏まえられていないのは土台としては不十分である。オス/メスではなく、ジェンダーとしてのオス/メス、要するに社会的男性/社会的女性というような、個々人に帰属させる民族内での社会的性差というものを明確に把握する必要がある。しかしながら、本著内容の根底には、このような極論的な男女論が見え隠れしている。【年収や役職】という、男を成立させる社会的指標などが。読んでいて非常に気持ち悪かったです。終始、このような自己矛盾的な対談に終わっているような印象を受けてしまう内容なのが残念。(田中さんは、ことあるごとに「おっしゃる通りですね。」しか返答していないように見えます。)


働く場所以外にも、当事者として存在できる場所を持てるかどうか。

これについては同意です。男としての不自由、そのれに付随した女としての不自由を解消するための手段として、今のこの現状を「緩やかに正しく壊す」ということが書かれていますが、これはまさに必要なのではないかと私自身も常日頃、内省を含みながら思っています。男/女としての、不自由の根源となっているものが家庭内での役割や地域内の関わりに課題があるとするのであれば、それを推進するための《男女観を撤廃した仕事観》や《男女双方の育児参加と育児休暇の取得促進》は絶対に必要です。そして、それ自体が、まさに、「働く場所以外での当事者意識」の醸成に結びついていくものであると思います。まず、働く場所以外の居場所が必ずしも必要であり、必須であるのかどうかという議論もあると思う。その議論の前に、なぜこのような「働く場所以外」が論じられるようになったのかと言えば、それは前引用で書いた通り、【年収や役職】で語られるような男性としての固着したアイデンティティを壊す必要があるから他ならない。【年収と役職】が前提となって対話が進んでいるような雰囲気に気分を害されるのだが、それは、この上記のような問題へ繋げるための布石だったのであれば納得できる。それを誇張して威張っている男も問題であるし、それに頼り切って世帯に入る女も問題なのである。


競争には99%勝つことはできない。

実は、競争というのは、誰もが一生勝つことのできない不毛なレースでもある。とある対象領域、たとえば、「営業部内」という限られた領域ならば、その領域の中でのルールや慣習によって競争に関した設定が成され、レースをし、勝敗をつけることが可能だ。しかしながら、それは限られた対象領域内でのほんの小さな出来事にすぎない。あなたが所属する対象領域でのルールに従って、様々な対象領域に所属している人々が勝負に参加すれば、あなたが「井の中の蛙」であったと実感するのはすぐだ。競争というのは、「上には上がいる」という暴力的命題で示せることではない。この命題というのは、このような不毛な形式をとらざるを得ない。

【…「『「『上には上がいる』その上もいる」その上もいる』その上もいる」…】

本物の「上」とは、どこまで行っても見つけることができない。であれば、これは暴力的命題というしかないのである。しかも、「上」という対象が、同じ領域に存在するような「上」とされる人でないと、同じ尺度で競争することができないのであるから、まず必要なのはルールそのものだ。同じルールの上でしか、真に「競争」はできない。ということは、戦うべきなのは相対(あいたい)する「人」ではなく、「ルール」そのものなのであり、ひいてはその「ルール」を作った人物、あるいは社会に向けられるべきであることは容易にわかるというのに。同じ土俵であらゆる人と競争することは不可能である。【年収や役職】で競争することも同じ領域に属さない者同士なのだから比較することすら不可能である。Twitterでいいねの数を競う合うことも不毛である。ありとあらゆるようなすべてを包括した世界の中で競争に勝つことなど不可能だ。それを可能であると見せるのは、資本主義が実現した会社法人のとある部内のとあるチームに所属する限られた共同体の中に存在する人間内でだけだ。本著の問題定義としては、「不自由さ」を感じている根源が、全世界に向けた競争心にあるのではないか、という部分であると思う。決して競争には勝つことは出来ない。「一番上」に君臨する勝者になることはできないし、なれる人は存在しない。「一番上」になれる場所というのは、全体から見てもほんの1%の領域に限られるような共同体の中でのみだ。


個人的に、男/女の二分法で物事を測ることは、不毛だと思っている。しかしながら、その不毛さというのが「今までの人類史の中で多くの人が了解してきてしまった確かに存在している性差」なのだとしたら、その了解は壊していかねばならない。まさに、男と女を壊すために、あえて「男」と「女」について、議論や対話をする必要があるのだ。

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