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電気のない夜に(日常のキロク)

 季節の移り変わりとともに、私の体内時計も異常な速さを見せてクルクルと過ぎていく。日中は暑いのに、めっきり夜になると温度が下がるもんだから、果たしてどんな服装をしていけば良いのか困ったものである。

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 月曜は久しぶりに、会社の人たちと皇居ランをした。大手町の中心にそびえる皇居の周りをぐるぐるぐるぐると回る。煌びやかなあかりがそこかしこに夜道を照らしていて、不安の二文字はないわけだが、一番初めに走った時の感動はどこへやら、途中くらいからゼーゼーゼーゼーと息が切れる。あまり感じたくはなかったけれど、やはり年には勝てない。でも滴る汗に、生きている実感を得ている。

 火曜日には、金木犀の花が一斉に花開いていて、強烈な香りを醸し出している。夜はメキメキと料理をしたい欲が出てきて、冷蔵庫に放置されていた野菜たちを使って、豆乳シチューと茄子と甘辛唐辛子のおひたしを作る。ちなみにシチューにはスパイスをここぞとばかりに入れたので、カレーの味がおもいっきしする。一雫の辛さの中に、自分の存在を見つけようとする。

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 水曜日、計画停電があった。

 ほんの一時間だけどその間は部屋中のありとあらゆる電気が停まった。そして、私はその時なんとも言えない静けさに、どこか拠り所のない不安を感じた。少し前に読んだジュンパ・ラヒリの『停電の夜に』と、ついこの間見た『愛の不時着』を思い出す。電気の通らない静けさ、真っ暗闇で何も見ることができなくて、心がザワザワとした。カシュッとマッチを擦って、蝋燭にあかりを灯す。

 あたりは静かで、虫の鳴き声しか聞こえなかった。電気があることで、こんなにも、がなりたてる音が日常的に鳴っていたのだということにハッとする。たった一時間なのに、何もすることができない自分にヤキモキする。PCも動かすことができないし、冷蔵庫で食べ物を冷やすことができない、当然ながら音楽もテレビもつけることができない。いつも日常的に唸り続けている換気扇が回る音もしない。

 つと、一抹の寂しさを感じる。こんな時、たぶん私の近くに誰かがいたのなら、手持ち無沙汰を紛らわすために、話をするのだろう。まあ、一時間なんてあっという間だったので、それほど誰かと話さなければならない! という切羽詰まった感情は湧き上がってこなかったのだが。

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 でも、私たちが享受している当たり前ともいうべき「電気のある生活」はとても便利でいて、その分親しい人たちとのコミュニケーションをそれ相応に奪ってしまっているのかもしれないと思った。もしこれが、電気が満足に提供されることのない世界であったならば。私たちはお互い、もっと支え合いながら生きていることだろう。料理をすることだって、ままならない。遠く離れた場所で、電気の通らない場所で震えている人たちのことを考えて、胸がつんと痛くなる。

 ふと、皇居の周りをぐるぐると回っている時のことが頭の中にパッと浮かんだ。たった5キロであっても、独りでやるには割とモチベーションが上がらず、誰かが隣にいて取り止めもない話をすることによって、その場がパッと明るくなったようになる。生きる、ということは誰かと会話をして、思い出を共有することなのだろうか。同じ時間を共有することの、大切さ。

 おかげさまで電気があることで、私たちは誰かがそばにいなくても寂しくない人生を送ることができる。もしかしたら、それは仮初なのかもしれない。誰かがいない心の溝を、突貫工事でカンカン音を立てながら埋めていくような。

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 そういえば、私が大学生の頃スローライフというのが流行っていた。

 みんながみんなそれまでのあくせく生きる生活から逃れ、もっとゆとりのある暮らしをしよう、というあれだ。

 私も当時、そうした時代の潮流にかぶれるように何か不便さを渇望して、さるNGOの活動に何回か参加したことがある。それも確か部屋を真っ暗にして、蝋燭の灯りだけでお互い自己紹介して、何かしらのテーマに沿って話をするという活動だった。今思うと、私も何かにせき立てられるようにそんなことをしていた気がする。

 そしてこれって、なんかに似ているよなと思ったら、数年前からハマるようになったキャンプだった。

 キャンプも、結局は利便性を排除した活動で(便利さを求めようとすると、やたらとお金がかかる)、そうした不便さの中だからこそ、自然の音や匂いに鋭敏になる。そして、ままならないからこそ限られた道具の中で作った料理が美味しいのだ。昨今のキャンプブームって、結局そうした以前流行ったスローライフをまた別の形に表したものである気がする。

 スローライフもキャンプも、流行したのは何かしらの要因があるわけで。私たちはもしかしたら電気のある当たり前の生活に慣れ過ぎてしまって、しんどくなっているのかもしれない。もしかしたら、人は満たされ過ぎているよりも、少しくらい不便である方が心は満たされるのだろうか。そんなことを考えながら、夜薄着で出てきてしまったことを後悔しつつ、私は半分に欠けた月を眺めている。

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