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風がそよぐオリーブの頃

 爽やかなオリーブの木々を、唐突に見たくなった。

 サラサラと吹く風、気持ちがグッと伸びて、生きる心地がした。坂を思いっきり自転車を漕いでいると、青春が遅れてやってきたような気持ちになる。気持ちが前にきちんと向いている。潮風のベタつきなんて気にならないくらいに。

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出鼻くじかれたし

 ほど良い暖かさからジトリとした季節に差しかかったころ、私は少しの間旅に出ることにした。ふらり、気ままなひとり旅である。ちょうど出発日は平日だったために、飛行機のチケットも安く取れた。出発の2ヶ月ほど前からレンタカーを予約し、どこのあてもなく自由に旅することに心が弾んでいた。

 向かった先は、香川。香川といえば、うどん。うどんをただひたすら毎日食べることを夢見ていた。そういえば、昔同じように四国を一週間旅したことがあって、その時そばには会社の同期がいた。誰かと一緒に行く旅は、話し相手がいて楽しいけれど、どこか自由でないような気がしていた。あれから少しは、孤独を愛する人間になれたのだろうか。

 有給休暇をとっていざ空港へ。LCCは、とにかくチェックインのクローズ時間が短い。空港までの電車に乗ってゴトゴト揺れる。窓を掠める景色が、柔らかい。差し込む光が、優しかった。過去の経験から、少し余裕をもって家を出た。

 ──はずなのに。

 空港へ到着した時に、はっとする。財布が、ない。そういえば出かけ際、バタバタしていて何かを見落としていたような気がした。得てして、そうした予感は当たるものだ。家に財布を忘れた事実に体がぐらりと揺れそうになる。本来もっとも優先事項が高い持ち物であるべきなのに。うっかりしていた。

 でも、ここで私の持ち前の「ぽじてぃぶしんきんぐ」が顔を出す。そうか、よく考えたらスマホはあるから電子決済でしのげばよい。現金に関しても、さいわいなことにクレジットがあるので、キャッシングでおろせばよいか。

 そんな軽い気持ちで飛行機に乗り込み、心なしか窮屈な座席シートにキュッと収まる。1時間くらいで無事に高松空港へ降り立った。そこでもう一つ大切なことにはっと気が付いた。あっ!運転免許証、財布に入ったままだった。

 ということで、当初車でぐるっと香川を巡ろうとしていたのだけれど、急遽移動手段を変更。もともと予約していたレンタカーをキャンセルして、電車で移動することにした。高松空港から高松駅へ移動する。一日目の夜は、昔留学していた時に仲の良かった友人と共に食事をした。久しぶりに連絡を取ったら、忙しいのに合間を縫って会いに来てくれて、涙が出そうになる。

 友人は是非に見せたいところがあると言って、高速を車で駆け抜け、そして瀬戸大橋を一望できる場所へ連れて行ってくれた。良い一日の終わり。そのまま友人は再び高松駅へ私を送ってくれて、次の日仕事だからと言って颯爽ととんぼ返りしていた。本当に、ありがとう。

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海の見える街

 最初に出鼻をくじかれる形になったものの、次の日も見渡す限りの快晴。でも、前の日に少し飲み過ぎたせいで、結局きちんと起きられたのはいつもの起床時間より遅い時間帯。さっと支度をして、フェリー乗り場に乗り込む。

 いざ、小豆島にゆかん!

 フェリーはまったく揺られることなく快適に、すいすいと1時間ほどで目的地に到着する。昔から行きたいと思っていた場所のひとつ。当初の計画ではフェリーに車ごと突撃する予定だったのだが、見事に私の凡ミスにより計画を大きく変更せざるをいけない事態となった。事前にATMのキャッシングで現金は少しばかり調達済みだ。

 ドタバタ喜劇を演じながら、必死に小豆島にて代替となる移動手段を模索する。最終的に見つけたのが、HELLOCYCLINGというアプリ。これはスポットを指定して、事前に電動自転車を借りることのできるサービスである。

(世の中は驚くほど、便利になりましたねぇ)

 はっきりいって生まれてこの方、電動自転車なんて乗ったことなかったものだから、さして普通の自転車と変わらんと思っていたのに。ところがドッコイ!実際に乗ってみると、要所要所で優しく私の足りない筋力をサポートしてくれるのである。

 自転車を漕ぎ始めてからすぐに到着したのが富岡八幡。この場所は特に事前に行こうと決めていたわけではなかったし、登るのが地味に大変だったけれど、頂上にたどり着いた時に眺めた景色は思わず足場がぐらりと揺れるほど雄大で、なんとなく君の名はの映画のワンシーンを思い出した気がした。

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心めぐる場所

 少し寄り道しながら、次に向かった先はこまめ食堂という場所だった。正直坂道を登っていかなければならないので、電動自転車と言えどけっこう骨が折れる。頭のてっぺんがじりじり焼かれるように熱い。目指した場所は、千枚田にも近くて、どうしてもその風景を眺めながらご飯を食べたかったのだ。

 事前に予約をしておいたおかげで、比較的スムーズに入ることができた。ひっきりなしに人がきて、その人気の高さをうかがわせる。お店の外装は古民家風の佇まいで、過ぎ去りし年月を感じた。ゆっくり、時間をかけて。お店の横側には、玉ねぎが吊るしてある。それがかつて旅した、淡路島の光景を思い起こさせた。

 お店に入ると、元気なお母さんたちの声が迎えてくれた。いらっしゃいませ!と言いながらはきはきと働く人たちを見て、坂道を登ってへとへとになった手と足がシャンとする。せっかくなので、オリーブ牛バーガーを食べることにした。小豆島の特産物なんだって。思ったよりも肉はあっさりしていて、ちょうどよい匙加減。

 お店に入ったとき、どうしても目移りして買ってしまった二つのマフィン。お母さんたちの温かさが伝わってきた気がした。柑橘香る酸味と甘さが調和のとれたおいしさ。きちんと誠意を込めて作ったものって、やっぱり口にするとそれが伝わるものなのかもしれないね。

 食べ終わった後、改めて目の前に広がる千枚田の景色を眺める。だんだんと連なっている棚田。梅雨の時期に見ることのできる青々と生い茂る稲の葉。水滴が噴きこぼれそうになった。香ばしい風の、確かな音がする。

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オリーブの木の下で

 それから再び元気を取り戻し、すいすいと自転車を走らせる。島の周縁部をぐるりと回っていくと、ところどころで海の匂い、それから視界に入ってくるのはオリーブの木だった。そのまま花言葉を体現したかのような、平和な街並みが広がっている。かすりゆく熱気が、とても気持ち良かった。

 途中では、小豆島オリーブ公園なるものがあって、とにもかくにもいたるところにオリーブの木が植わっている。連なるオリーブはよくよくみると様々な品種が植えられていて、その間の道を歩くだけでも楽しかった。しばらく歩くと、風車が見えてきてそこでは箒に乗りたてと思われる魔法使いたちがたくさんいた。彼女彼らは、どんな魔法をかけるのだろうか。

 この時点でご飯を食べてから3時間ほど経過していて、初夏とは思えないほど暑い。ただひたすら体が熱い。この文章を書いているのは冬の時期であるというのに、当時のことを思い出して体が火照る。

 小豆島ではどこもかしこも購買欲を掻き立てられるスポットがたくさんあって、みるみるキャッシングでおろした財布の中身が消えていく! 島には見渡す限りATMの影の形もない。私は不安に襲われつつも、加護を受けることなく籠の中にお土産を放り投げていく。欲しいものはいくらだって湯水のように湧き出してくるのだ。

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原点

 それから再び私はペダルを漕ぎ、時々まとわりつく暑さに辟易しながらも先へと進む。それからまた小一時間経ったところで、懐かしい匂いのある場所へ足を踏み入れることになる。かつて、日本のとある空港へ迎えに行ったときの、海外の友人の言葉を思い出す。「日本って、醤油の匂いがするってホントだね!」

 おそらくその時の彼の驚きの比ではないだろう。道路を自転車で通り過ぎていくときの、大豆がじっくり発酵した匂い。確かに香ばしい匂いであることに間違いはないのだけれど、一方でとんでもなく懐かしい気持ちにもなる。これが、やっぱり日本の、私の原点と言えるのかもしれない。

 小豆島は、「ひしおの郷」としても有名で、とあるエリアに到着すると至る所に醤油の販売所を見ることができた。そのいくつかの場所では、製造も兼ねていて、中を見学させてもらえる。見学の際は、納豆を食べてはいけないらしい。なるほど、確かにナットウ氏は強そうだもんね。

 せっかくなので、醤油を買う。日本は、本当に調味料大国だと思う。特に、醤油とだし。これが、たぶん和食の根幹をなしていると言っても過言ではないくらい。大人になってよかったことのひとつは、醤油ひとつとっても実はいろんな味の奥行きがあることを、知ることができたことではないだろうか。

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静かに、しとやかに

 最後、小豆島で数少ない酒造店でお酒を買ったのち、本日の夜の宿泊先へと向かう。小豆島は思いのほか、泊まれるところが少ない。いろいろ迷った末に、私はキャンプ場でテントを張ることにした。おかげで、リュックはほとんどキャンプ用品に占領されてしまった。

 予約していたキャンプ場は、再び坂道を登って向かうことになる。よくよく考えたらバスで行ってもよかったとも思ったのだが、いろいろ手違い(バスの本数は限りなく少ないのだ)あって、結局電動自転車が小豆島における最大のパートナーになってしまった。

 寒くなりそうな予感がして、コンビニで眠り薬代わりのハイボールを買おうとしたら、1本600円もする(私からしたら)結構高級な飲み物だった。一度会計を済まそうとして、レジに通した瞬間その金額の高さを知ったものだから、小さな声で「ちょっとこれやめたいです」と言ったら店員さんもその値段を見てぎょっとした顔をして、「ですよねぇ!」と返されてちょっと救われた気持ちになった。

 ようやくキャンプ場にたどり着いたらすでに先客がいて、7人くらいの陽気な人たちがやんややんやと酒盛りをしている。その輪の中に入る度胸もなく、とりあえずキャンプ場に併設された温泉に入ったら急激に眠気が襲ってきた。キャンプ場のオーナーはいろいろ気にかけてくれて、なかなかにダンディな伊達男だった。

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 頭上には中途半端にかけた月が、微笑んでいる。

 蚊があまりにも多すぎ問題、羽音聞くたびに会いたくなくて胸が震えた。外では、少し奇妙に聞こえるブラジル語が飛び交っている。ひとりで旅をすることで、グルグルとめぐる現実から離れることができたような錯覚を覚えた。そうだ、これはきっと錯覚だよ。少しずつ、階段を上っているような気がするのもね。気が付けば、寝袋の中で私は健やかな寝息を立てている。

 なかなか悪くない夜だった。遠くのほうで、鶏の鳴き声が木霊している。明日の空は、明るかった。

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