見出し画像

信長の鉄甲船の真実とは?

第二次信長包囲網

天正4年(1576年)
京都を追放された室町幕府将軍、足利義昭は打倒信長を目指し各地の大名に御内書(書状の形式を取った公文書で幕府の公式な命令書と同様の法的効力がありました)を出し信長包囲網を完成させました。

甲斐の武田、中国の宇喜田、毛利、越後の上杉らと共に包囲網の一角を担っていたのが法主顕如率いる石山本願寺。

天正4年(1576年)
信長の包囲網をうける石山本願寺に兵糧搬入に向かったた毛利水軍・小早川水軍・村上水軍を中心とする瀬戸内の水軍と、搬入を阻止するために迎えでた小田水軍が大阪湾木津川河口で激突。

毛利方の水軍の使用する焙烙玉(手榴弾みたいな物)・雑賀衆の使用する焙烙玉や火矢の前に織田水軍は壊滅的な打撃を受け本願寺への兵糧搬入を許してしまいました。

後に「第一次木津川口の戦い」とよばれるこの戦いでの大敗に激怒した信長は九鬼 嘉隆(くき よしたか)に命じ、ある船を作らせ2年後にリベンジを挑むのでした。

天正6年11月6日(1578年12月4日)
石山本願寺へ再び兵糧搬入に600隻の船団向かった毛利水軍の前に現れたのは3門大砲を装備し船体を厚さ3mm程度の鉄板で覆った6隻の巨大な安宅船でした。

そう、歴史好きな方ならご存知、

軍事の天才信長が発明した鉄甲船です。

この巨大な船の鉄板の前には、さしもり焙烙玉、矢も歯が立たず、6隻の船、計・18門の大砲を前に毛利水軍は壊滅してしまいました。

と、言われてますが

実は、

この鉄甲船が実在したという記録は一切ありません

堺まで見に行って、ついでに乗船した宣教師のオルガンチノもその船の巨大さに驚いたことは書き記しましたが、鉄甲の事には触れていませんし、また大船の建造にあたった九鬼家の家譜にも装甲に関する記述はありません。

では、何を根拠に信長の鉄甲船が実在したといっているかというと実は奈良の多門院の英俊という坊さんの日記に書かれている

「鉄ノ船也」

の一文だけなのです。

しかも、本人が見たわけで風聞。

ですので、船の大きさも信長の家臣であった太田牛一の書いた『信長公記』では

「長さ十八間 横六間」(一間は約1・8メートル)

と書かれているのに対し

「横へ七間 竪へ十二、三間もこれ在り」

と書かれていたりします。

この風聞を聞いて日記に書き記した

「鉄ノ船也」

の一説だけを根拠に、他の資料を用いた検証は行われずに

現代まで信長の鉄甲船は実在した

と、いわれ続けてきたのでした。

では、真相はどうだったのかというと、乗船していた砲手や銃手が狙撃されないように彼らのいた場所に鉄板を装甲していたのが真実らしいです。

また、この話で信長が始めて大型の船を建造しに思われていますが大型船の建造はこれが初めてでなく

天正元年に琵琶湖で鉄甲船より巨大な船を建造させ
(同年7月に上洛の時に使用した後に解体し早船に作り替え)

天正2年(1574年)7月の長島一揆攻めにも大型船を動員し、第一次木津川口の戦いでも大型船を使用していたのでした。

そして、この戦いで敗北した信長が安宅船を建造させたのは毛利水軍を殲滅させるためではありませんでした。

信長が作らせた7隻の安宅船には大砲の他に全長1.5~2メートル、口径2~3センチの大型の銃も多数配備されていました。

(ちなみに大砲も全ての船に3問ずつ置かれていたかは不明だったりします)

信長の目的は、この船を使い予定の水路にやって来る敵の正面に浮かべ、石山本願寺への補給を遮断することでした。

これはオルガンチノや英俊の日記にも書かれていることから明らかなことです。

そして、実際の合戦では、安宅船の重火器で毛利水軍を近づけさせず(当然、焙烙玉も届かない)、

毛利水軍も

「突破は困難」

と、みなし撤退して行ったのでした。

「さてさて、第一次木津川口の戦い」から2年後の信長包囲網はどうなっていたかというと、朝倉、浅井は滅び、武田は前年の長篠の戦いで大打撃を受け、石本願寺は信長の勢力圏内で孤立無援状態になっていました。

そこで、天正4年(1578年に)石山本願寺は毛利と同盟を結び、

このことから

戦いの構図は

織田ハVS毛利

の全面戦争へと変わり、石山本願寺は毛利家の重要な橋頭堡の役割を担うことになりました。

つまり、天正6に行われた第二次木津川口の戦いは、孤立した橋頭堡=石山本願寺を奪取しようとする信長と、それを阻止するために補給部隊を送った毛利との間に起こった合戦でした。

そして、信長が安宅船を使い毛利の補給部隊を阻止した作戦は、地上戦で同じ状況の時に、橋頭堡の付近に出城を築き敵を封鎖するという、当時としてはごく普通の戦術を

出城⇔安宅船

に置換えて行っただけの、ごく普通の戦術であり、勝利の要因は重火器を大量に装備した6隻の安宅船による物量の勝利だったのでした。


-----------------------------------------------

参考資料・サイト
『 信長の戦争』
 藤本正行著 講談社学術文庫

『戦国時代の大誤算』
鈴木眞哉著 PHP新書  

信長の鉄甲船
http://salad.2ch.net/warhis/kako/984/984240134.html

今日は何の日?徒然日記
http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2009/11/post-6b66.html

信長の鉄甲船
http://www2.memenet.or.jp/kinugawa/ship/2300.htm


この記事が参加している募集

スキしてみて

日本史がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?