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「地元」というものについて

私の友人が「地元がない」というnoteの記事を書いていた。
自分の中で暖めていてどこかでアウトプットしたかったテーマに近かったので、触発されてこの機会に少し自分の「地元感」を書いてみようと思う。

自分にとっての「地元」

私にとって所謂「地元」と呼べるような場所があるかと言われたら「ない」という答えになる。
父親が転勤族で幼少時から転々と地域を巡り、私自身もつい最近まで転勤をする立場だったので、今住んでいる長野県塩尻市で10箇所目の地域。

少し変遷をまとめると・・・
0歳     :愛知県名古屋市(生まれた場所)
1歳くらい? :三重県松阪市
2歳くらい? :埼玉県越谷市?
3〜5歳    :兵庫県神戸市(幼稚園、阪神大震災に遭った)
6〜7歳    :東京都町田市(小1〜小2)
7〜18歳   :福岡県春日市(小2〜浪人、父親は中2から単身赴任)
18〜22歳   :京都府京都市(大学時代)
22〜25歳   :愛知県名古屋市(社会人、工場実習期間は別場所)
25〜28歳   :広島県広島市(社会人、転勤)
28歳〜現在   :長野県塩尻市
※現在の実家:兵庫県宝塚市
  祖父母の居住地:新潟県新潟市
  父方の墓:静岡県静岡市

・・・本当に「お前どこの人やねん!」という感じ。
長くいたのは福岡だけれども、もはやそこに実家はなく、今は殆ど帰ってない状況。「あなたのアイデンティティはどこですか?」と聞かれても、如何とも答えられないのだ。

「帰れる」「ふるさと」と呼べる場所

私には一般的に「地元」と呼べる場所はない。
だけれども、「帰ってきた」と言えるような「ふるさと」と呼べるような場所は、自分の中に数多存在する。
逆に言えば「地元」がないことによって、そのような「ふるさと」を、どこにだって作れるような気がしている。

では「ふるさと」を規定する場所ってなんなのか。
私は「人」と「追憶」が、そうさせるのだと思っている。
たとえ住んだことがなくったって、あるいは住んだことがあった場所であっても、「人」と「追憶」の有無で、そこが「ふるさと」かどうかが変わってくると感じるのだ。

例えば、私にとって福岡は「追憶」の街で、今「ふるさと」と呼べる場所は、6年間過ごした中高と(中高一貫の男子校であった)、浪人の時にストレスが溜まったら逃げ場所にしていた舞鶴城の天守閣跡くらいである。あとは前の彼女との思い出がある大濠公園とかか。あ、犬の散歩によく行ってた春日公園もかな。
住んでいた春日市も、浪人の時に通った福岡の街も、今となっては「ふるさと」の感じがあまりない。実家もなく、足が遠のく中で福岡の友人も誰がいるのか、連絡を取って良いものか分からなくなってきた。
それでも、自分の記憶の中で「追憶」になっている場所は「ふるさと」だ。

京都の「ふるさと」はその殆どを過ごした大学構内と体育館テラス、そしてよく飲みに行った店の店主だ。飲み屋の店主も、私にとっては「ふるさと」を感じさせてくれて「帰りたくなる」とても大きい要素である。
四条木屋町上ル「壱」の店主、祇園「ピノ太郎」の後田さん、石塀小路「Tinto」のママ。それがある限り、私にとって京都は「帰ってきた」と言える場所である。
逆に、百万遍にあった「翠林」は潰れていて(移転!?)、お世話になった大将がいなくなってしまった。だから、大学周辺は場所以外の「ふるさと」感が、今なくなってしまっている。

名古屋は「内山HO-------」が潰れて、私の居場所がなくなった。

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広島は、いろんな感情を置いてき過ぎてしまった。
会社の新規顧客であるマツダ、しばらく一人で過ごした事務所、孤独に歩き回った街並み、広島を深く好きになるきっかけとなったひろしまジン大学、通いつけた「加賀屋」の暖かいお母さん。
まち全体に「追憶」が漂い、そして会いたくなる人がたくさんいる。私にとって、広島はその全体が「ふるさと」であり、「帰りたくなる」まちである。いろんな人が、広島を「ふるさと」にしてくれたと思っている。

住んだことのない場所であっても「帰りたくなる」ところはある。
実家は言わずものがなだけど(ちゃんと書かないと母親に拗ねられる笑)。
島根県浜田市の室谷の棚田は「あなたの幸せをいつも祈っている」棚田を守る三姉妹のお母さんがいる(冒頭の写真)。北九州にはいつ行っても出迎えてくれる、前の会社の同僚である神田さんの家がある。前の会社の同期の実家である香川県綾川町の田川家は、私が一人で四国を回っていたら「寄らへんの?」と声をかけてくれて、美味しい料理を用意して待っててくれて、お土産に焼きおにぎりを持たせてくれる。
思い出すだけで、心に浮かべるだけで、じんわりと暖かい気持ちになる「ふるさと」と呼べる場所だ。そこには全て「人」がいる。

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そして、ふるさとが「人」と「追憶」をベースにしている以上、それは住んでいて感じる場所ではなく、離れたところで想いを馳せる場所なのだろう。
それぞれの地域に住んでいる時は、「ふるさと」などというイメージはなかった。そういう意味では「ふるさと」には常に「帰ってきた」という概念がつきまとう。多分に「ふるさと」は、ノスタルジーとともに想起されるものではないだろうか。

私には「地元」はないけれど、たくさんの「ふるさと」がある。

「ヨソモノ」という感覚について

「地元」がない私にとって、のっぴきならない「ヨソモノ」の感覚がある。
明確に感じたのは2016年5月27日、広島の平和記念公園に当時アメリカ大統領だったオバマが来訪した時のことだ。その時に感じたこと、その前後に感じた「ヨソモノ」という感覚については、Facebookに書き残している。

いかにその土地を好きになろうと、その土地に染まろうと、その土地で生まれ育ち様々な関係を育み「地元」として過ごしてきた人たちに比べると、そこには雲泥の差がある。
・・・と、言えるほどひと所に長くいたわけではないのだけれど、年月が解決する問題ではなく、やはりそこには大きな隔たりがあるように感じる。それは理屈とか論理を越えた、感覚的なものだと思うのだ。

そして「地元」と呼べるものがないことがクリティカルな要素になっているかは分からないが、自分の中にどこか「染まりきれない」自分がいるのも事実である。それは地域とか土地とかそういったことに留まらず、様々なコミュニティとか、人間関係とか、組織とか、そういったものに「染まりやすい」のだけれど、どうしても「染まりきれない」。
自分自身では「マージナルマン」と勝手に格好つけて(笑)言っている。デジタル大辞泉には「文化の異なる複数の集団に属し、そのいずれにも完全には所属することができず、それぞれの集団の境界にいる人。境界人。周辺人。」と記載があるが、まさしく。
良い悪いではなくて、どこかに「ヨソモノ」である自分を作ってしまうような、そんな感覚。どこにいたって、ともすればすぐに顔を覗かせる「孤独感」はそこに由来すると感じている。

「地元」がないからこそ、得られる感覚もあるし、得られない感覚もある。

自分の中に残っている文章

「地元」とか「ふるさと」ということについて、自分の中に残っている文章がある。作者のラインナップを見て「またかよ・・・」という感覚を覚えるかもしれないが、それほど私の中で人生観を支えている本の一節だ。

まずは「ヨソモノ」という感覚について。
坂口安吾の『日本文化私観』からの一節。

タウトが日本を発見し、その伝統の美を発見したことと、我々が日本の伝統を見失いながら、しかも現に日本人であることとの間には、タウトが全然思いもよらぬ距りがあった。即ち、タウトは日本を発見しなければならなかったが、我々は日本を発見するまでもなく、現に日本人なのだ。

そして、漂泊と定着に関する感覚について。
梨木香歩の『ぐるりのこと』からの一節。

その人を、他の何ものでもないその人として、生まれながら構成しているいくつかの要素の中に、「どうにも抜き差しがたい流離感」というものがある。(中略)彼の視点、拠って立つところのものを奇妙な仕方で支えていたのは、この「流離感」であったのかもしれない
一ヶ所に長い年月定住していると、きっと人知れず澱のように溜まってくる何かがあるのだろう。或る土地に住み着き、やがてその土地に愛着が生まれ、執着が生まれる。
「どうにも抜き差しがたい流離感」、その流離感が引き起こす漂泊を渇望する心と、日常が絶えず指し示す土着性に惹かれる心と、しかし、結局私はどちらの心の正しい引き受け手にもなれずに、いたずらに年月を重ねてしまった。

そして、これから。

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私の中にも、梨木香歩が書いたところの「どうにも抜き差しがたい流離感」が存在する。それはある意味、マージナルマン的な「ヨソモノ」の感覚だと思う。

でも、私は信州で子どもを育てたいと思った。
だから、塩尻に根付いていきたいと思った。
そして住んでから2年、私はこの塩尻が、たまらなく好きだと思っている。
漂泊や根無し草を特性とする人間が、この選択をして、今後どうなるかは自分でも楽しみではあったりする。

これからも、いろんな場所を「ふるさと」にして、「帰りたい」場所を作っていきたい。
そして、ここまで感性が確立していく中で、塩尻という土地はもう「地元」にはなり得ない。
そして今、自分が住んでいるが故に「ふるさと」にもなり得ない。

そんな塩尻を、私の心がどういった感性で捉えていくのか。
とても、楽しみなことだと感じる。

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