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フェミニズム【最終章】~加害者としての矛盾を抱えて~

フェミニズム【第2章】~「月か徳か」ではなく「月も徳も」;解決策としてのケーパビリティーアプローチ~」の続き

このシリーズでは、日本における女性問題の現状、フェミニズムと文化的多元主義の対立。解決策としてのケーパビリティアプローチを紹介してきた。

ケーパビリティアプローチとは、女性問題を男性、女性と切り分けて考えるのではなく、人間として素性が整っているか否かということを問うものである。人間が持つべきケーパビリティには、基礎的、内的、結合的があって、簡単に説明すれば、基礎的とは見る、聞く、話すなどの人間としての基礎的なもの。さらに内的とは宗教や職業、はたまた恋人ということを選択することによってその人の個性を形成するもの。最後に、結合的とはその内的ケーパビリティを保証する制度、慣習などが存在する外的環境である。日本の女性の社会進出における、賃金、待遇の格差、合理的配慮のなさはこの結合的ケーパビリティにおいて欠如しているのではないかということを前回は述べた。

結局のところ、女性問題とは男女の問題ではなく人間としての問題であったのだった。

以上が前回までのまとめである。本章は、なぜ前章までのようなまとめを作ったのか、そして私個人としてのこの問題はどうなのかということをお話ししたい。

そもそも私は昨年から主に始まったMeetoo運動に興味を持ち、自らの研究や勉強の傍ら、フェミニズムや女性問題の本、資料を徐々に読み始めた。

そんなある日、とある雑誌の記事を読んだ私はとてつもない後悔をした。その記事には、アメリカのある企業では女性のスカーフを褒めることも憚られているというのである。私はこれを読んだとき、今までの行動、言動のいくつかを省みた。つまりこれは職場において女性の容姿が関係ないということを示すための慣習のようだ。ケーパビリティを整えるためにここまで、配慮がなされているというのである。

以下エピソード

・高校生の時、友人と机に彫刻刀で刻み込んだ陰茎。あれは性を露骨にだすことによって、あれを女性はどのようにみていたのだろうか。

・ボランティアに参加したとき、食事の時間、同じボランティアに参加していた女性4人と昼食をとっていた。ある一人の女性が、まったく食べることなく、目の前におかれた水しか飲んでいない。「大丈夫ですか、体調悪いの?」僕は、女性に大きな声で訪ねてしまった。すると恥ずかしそうに、小さな声で返ってきた言葉は、「女の子は毎月....」。その時しまったと思った。その時は、まだ僕らの周りに人が少なかったのでよかったが、これが大勢の前で僕が問うていたらどうなっていただろうか。僕の声も大きかった。また、本人にわざわざ言わせてしまったということもあった。

・ある日、皮膚がかゆいと皮膚を書いていた女性。咄嗟に言ってしまった。「え、でも肌綺麗だよ。」。とてつもなく、嫌な顔をされた。当然だ。合理的配慮のためにスカーフをも憚られる時代なのである。

・ある大人が、私の隣にいる女性に家族計画を聞き出した。「子供は何人欲しい?」それまで話していた話の文脈とは関係なく、只その大人の興味でしかなかった、少し顔がニヤニヤしていた。今考えると、あれは一種の性癖であったのかもしれない。しかし、私はとっさにそれを止められなかった。

その記事を読んだ時、以上のような私が行った代表的な行為(思い出せば、もっと出てくる)が私の心のなかに呼び起こされた。そして、私のような行為の繰り返しが社会的に積もった時に、日本のような社会が生まれるのではないか。私は一種の加害者ではないだろうかと思うようになったのである。

加害者に、この問題を語る資格はあるのか。そのような疑念があるから、語らない方が賢明だと思った。また、Twitterなどで、そういった社会を咎める記事やツイートに一応は共鳴したりはするものの、現実として僕はその咎められる側なのかもしれない。これは、矛盾だ。その一方でアイドルなど、可愛いと自らが思った写真にも共鳴する。もしかするとこれもまた、矛盾なのかもしれない。私は社会のなかで、女性を性のはけ口や、目的とみて、合理的な配慮もできないおっさんの側なのかもしれない。

私はこの問題についていつしか口を閉ざすようになったのだった。そうして、インプットだけが募っていった。

しかし、男女という枠組みを置かないケーパビリティアプローチを学び、これは人間としての問題であると思うようになった。今までどこか希薄だった、当事者意識が芽生えたのである。また、男女の枠組みで考えることで生まれていた、好きな人が女だとか、女の子にドキドキするとか、女性のアイドルの動画を見るとか、そういったことは、相手に私のエゴイズムを強制しない限り、つまり能動的に傷つけたりして、結合的ケーパビリティを侵害しない限り私の内的ケーパビリティの観点から矛盾ではないと考えたのである。加えて、今まで加害者であった自分のような人々が口を閉ざすよりも、実践のなかでトライアンドエラーを繰り返し(もちろん性犯罪のようなエラーは含まれない)、自らの誤りがあった時はその都度謝りながらやっていくことがそういった人間としての素性が皆に整った社会を作っていくうえで重要であると考えたのである。無論、私一人で社会が変えられるわけではないが、少なくとも一人が当事者としてやらないよりもやった方が良い。徐々に考えは変化していったのだ。

そういった当事者意識の芽生えから、今回こうやって募っていたインプットをまとめることができたのであった。また、これは上であげたような行為をしていた自分への反省文のようなつもりで書いたのだった。

これから、私は主として実践としてのフェミニズムをやっていこうと思う。トライアンドエラーのなかで、一人の当事者として、自らの体験や経験のなかで学ぶのである。その前段階として、つたないようではあったが、このような問題に興味を持ち、そしてアウトプットができたということは実践の方向性を考えるという意味でよかった。

これ以上書くのは、言い訳がましいので終わる。

最後に、このシリーズを読んでくださった方、有難うございました。これからも、ダクト飯をよろしくお願いします。

終わり。

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