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フェミニズム【第2章】~「月か徳か」ではなく「月も徳も」;解決策としてのケーパビリティーアプローチ~

「フェミニズム【第1章】~月か徳か~」の続き。

前回は、女性問題におけるジレンマを紹介した。前章、前前章で挙げたように女性の社会進出が進んでいないことが問題であると捉えられる一方で女性と男性にはそれぞれ違った役割があり、文化的にそれが認められている場合、徳とされている場合、それを全うすることが女性にとって善い人生となるのではないかという、リベラリズムと文化論の対立のような構図があったのである。(前章では、これを月か徳かの選択といった。)

それは見せかけのものであると私は考えている。それを説明するために本章では哲学者ヌスバウムの「ケーパビリティアプローチ」を用いたい。ヌスバウムはアメリカ出身の哲学者、倫理学者である。開発問題、ジェンダーなどにおいて規範倫理を構築した。

ではさっそく、ヌスバウムが生み出した「ケーパビリティアプローチ」とは何か。それは、人間の本来持つべき素性つまり、ケーパビリティ(潜在能力)に着目して、現代の女性問題を解決しようという考えだ。ちなみに、このケーパビリティアプローチは、他にも開発、貧困問題などにも応用されている。ケーパビリティというだけあって、その着眼点は「何ができるか。」ということである。また、このケーパビリティは人間という括りを用いるため、男女、人種、文化によってその違いは存在しない。

ヌスバウムによると、人間が本来持つべきケーパビリティとは、主に3種類ある。基礎的ケーパビリティ、内的ケーパビリティ、結合的ケーパビリティである。一つずつ説明していくと、基礎的ケーパビリティとは見ること、聞くことなどといった人間が持ち合わせている基礎的な能力である。内的ケーパビリティとは、基礎的ケーパビリティに加え、宗教の選択や政治の選択、恋人の選択、生き方の選択といったその人の個性を形成するものである。最後に、結合的ケーパビリティとは内的ケーパビリティが社会的に保障されていることである。憲法による権利の制度下や、慣習における権利の正当化などが考えられる。

これに従ってさらに具体化すると、次のようなケーパビリティの項目が生まれる。

生命、身体健康、身体保全、感覚・想像力・思考、感情、実践理性(倫理観の選択)、連帯(社会基盤、社会参加)、自然との共生、娯楽、政治的・物質的な自由。

人間は、最低限上の項目の保障がされていなければならない。

これは、あくまでヌスバウムが3つのケーパビリティに沿って作り上げた項目であり、上のものに何等かの項目追加されることもありうる。しかしながら、3つのケーパビリティに反するような項目、例えば、男性優越、残虐性、などといったものを含むことはできない。

また、所謂合理的配慮はケーパビリティを補うという理由で正当化されることになる。何回も述べるようだが、このケーパビリティアプローチは、何が善いかではなく、何ができるかに着眼点が置かれていることが重要だ。そのため、ケーパビリティの環境を整えるための、ギャップを補う分配や介入は許されるのである。

ケーパビリティアプローチについて一通り、解説したうえで最初に戻って月と徳の選択の問題を考える。前章にあげたジレンマとは、「善さ」というものは、人それぞれ違うので、必ずしも女性問題における「解放」の主張が女性にとって善いわけではないという文化相対主義的な考え方に基づく。しかし、この考えをヌスバウムは批判する。彼女の批判の要旨に従うと、静的にみられる文化というのも実は動的に変化しており、善さも変化する。また現代では、インターネットなどによる情報の交易が盛んに行われるのでそれは、尚更のこととなる。結局のところ、文化論的な善さという絶対性はないのである。また、それを文化はそれぞれと相対的に擁護してしまうことは、相対主義的であるのに、静的な絶対的な文化論を認めているという矛盾が発生する。このような要旨で、文化論的な女性観を否定しながらも、そのように生きている人をヌスバウムは否定しない。なぜならば、ケーパビリティが整った社会であれば、伝統的な生き方を選択する女性をも認められるうるからである。このように、どのような生き方が善く、どのような生き方が悪いかという二項対立的な議論に持ち込むことなく、上にあげた絶対主義的な女性の生き方の押しつけを否定できることがこのケーパビリティアプローチの優れた点である。我々は確かに、一見排外的な共同体や文化のコンテクストのなかに美徳を感じている女性の姿を尊重することはできるが、手離しでは喜ぶことができないのである。

最後に、前章、前前章で取り上げた現代の日本社会についても考えてみよう。先ほど挙げた基礎的、内的、結合的ケーパビリティが充たされているだろうか。それは、結合的ケーパビリティが充たされていないという点で、否ではなかろうか。序章でもあげた通り、男女が同一の労働をしていたとしも、女性は男性の7割ほどである。教育、健康、選択といった基礎的、内的ケーパビリティが充たされている日本であり、仮に管理職、政治家が女性の選択によって選ばれないとしても、同一労働に同一賃金が払われていない状況は結合的ケーパビリティという点で足りぬことがあるのではないか。やはり、女性問題は確かに普遍的な問題として存在し、それは女性問題というよりも現代日本において人間としてのケーパビリティがないがしろにされているという問題なのである。男性としての問題でもある。

結局のところ、再三述べるように、私たちは、男女で何が善いかということではなく、人間としてどれだけのことが、そして何が選択可能かということに今一度注目するべきだろう。文化、伝統といった「善さ」は、ヌスバウムが言うようにケーパビリティさえ整えば、一人一人が追及できるのである。

以上が私が、善さの対立は「見せかけ」であるという理由である。我々はまず人間として、持つべき素性であるケーパビリティを持てば、それぞれの善さは対立することなく共存できるのである。善さの追求から始めれば、対立がおこるのである。だから、我々はその善さの対立を起こさないこともできるのだ。

「月か徳か」ではなく「月も徳も」なのである。

前章、前前章と、フェミニズム論を述べてきたが、あくまでこれは私が書籍や資料などを参考に頭のなかで構築した理屈である。もちろん、それは重要であることに違いはないが、実践において、現実においての私はどうなのかということを問われる方もいるかもしれない。そこで、実践を通してこの問題において私が生み出した考えを今度は自身の経験を中心に次章では述べたい。

つづく。

【参考文献】

なか

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