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小説「ある朝の目覚め」第一章

あらすじ

化粧はわたしの「戦闘服」。わたしを強くしてくれる。

内気で感受性の強い自分に「武装」してIT企業の技術営業職として働くあや子は、お気に入りのノートと万年筆で日々の出来事や自分の考え・思いを書き出して整理する習慣を仕事や生活に活かしている。

出勤前のおひとり様時間を楽しむカフェでのある女性バリスタとの交流が、あや子の日々と内面とに、最初は小さな、徐々に大きな波紋を起こしていく。

ある日、1杯の特別なコーヒーとそこに込められた様々な思いにより、あや子の人生に決定的な変化が訪れる。

性の多様性を1つのテーマに、真の自分らしさや心の自由を求めて生きるヒロイン達の等身大の物語。

目次


第一章

手のひらサイズの女の小人たちがわたしの周りに集まっていた。小人たちは何か悲しいことがあるのか、しくしくと泣いている。小人たちの涙が地面に落ちる度に、わたしは下腹部に染み込むような痛みを感じた。「あなたたちはどうして泣いているの?」そう声をかけたところで目が覚めた。そうか。これは生理の予兆の痛みだ。

金曜の朝。わたしは少しだけ憂鬱な気持ちで身体を起こす。目覚まし時計を見るとアラームの鳴る直前だった。わたしはトイレに行く。寝室に戻り、昨夜のうちにポールハンガーにかけておいた服を確認する。スーツは昨夜のうちにスチームアイロンをかけてシワを伸ばしてある。順番に手に取り着替えていく。スーツは薄いグレーのセットアップのパンツスタイル。インナーに明るいオレンジのニットを覗かせて、落ち着いた印象を与えつつ華やかさも表現する。着替えた服を濡らさないよう部屋着のカーディガンを羽織って洗面所で顔を洗い、丁寧にスキンケアをする。化粧用具一式を持ち、ダイニングテーブルに移動し椅子に座る。慣れた手順で手早く化粧をする。髪全体にミストをかけて寝癖をとりつつドライヤーでブローしてヘアスタイルを整える。柑橘系の香りを身にまとう。完全栄養食品のパウダーをシェイカーに溶かして力を入れて振る。出来上がったどろりとしたドリンクを少しずつ飲む。シェイカーを洗い流し、洗面所で歯を磨く。ダイニングテーブルの椅子に座り、テーブルの上に置いておいたA六サイズの小さなノートにこれまでの出来事を簡単にメモして、ノートと万年筆を出勤用のバッグにしまう。シンプルなデザインのブラウンのベルトを締め、すずらんの花をあしらったシルバーのネックレスを着けて、ジャケットを着てオフホワイトのスプリングコートにベージュのストールを羽織り玄関に向かう。

今日の天気予報は「曇り午後から晴れ」だった。わたしはバッグから折り畳み傘を取り出して、玄関のシューズクローゼットの上に置いてから、靴を履く。玄関の全身鏡に表情を写し、軽く化粧ののりを確認する。眉の形を少し失敗したかも知れない。まあこれを気にするのはわたしだけだろう。鏡の中には、意志の強さを感じられる少しきつめの化粧を施した女性が写っていた。化粧は戦闘服。誰が言っていた言葉だっただろうか。わたしはいつからか、気の弱い内面を隠すために化粧をしっかりと装うようになった。最初の頃はその外見の語る自分の強さと、内面のおっとりした自分とのギャップに戸惑うこともあった。しかし人は見た目に騙される。営業職として新しい人と会う機会の多いわたしにとって、会って最初に強めの印象を相手に与えることは、仕事の話を進める上で好都合なことが多かった。わたしは軽く口角を引き上げ、笑顔を作り、鏡の中のわたし自身に向かって「いってきます」と声をかけた。


わたしは職場の近くにあるスターボックス・カフェに足を運ぶ。ダークグレーのギフトボックスの蓋を開けると黄色い大小の星たちが飛び出す様子を描いた楽しげなロゴマークを見て、わたしはかすかに微笑む。店内には淹れたてのコーヒーの香りが漂っている。

わたしはこのカフェで出勤前の儀式を行う。まだ混み合うには早い時間帯だ。カウンター席はわたしを入れて二人しかいない。顔なじみのバリスタはわたしのコーヒーの紙カップに笑顔の顔文字を描いて渡してくれた。わたしはグランデサイズのコーヒーのカップの蓋を取り、香りを味わい、息を吹きかけて丁寧に冷ましながら、少しずつコーヒーを飲む。わたしの位置からはバリスタの作業している手元を遠目に眺めることができる。彼女はマシンで淹れたドリップコーヒーを一度サーバに注ぎ量を確認したのちに手際よくカップに注ぎ、笑顔でカウンターの向こうの客に渡していた。今日のコーヒーはラテンアメリカ産の豆のブレンド。しっかりとしたコクに加えて、ほのかな酸味も感じられる。このカフェの最初期の店舗から提供されているという伝統あるブレンドだ。ロゴマークに星をあしらっているからか、スターボックス・カフェのオリジナルブレンドの名前にはギリシャ神話の神々や星座の名前を用いられていることが多い。

わたしは紙カップのコーヒーを三分の一ほど飲んだところで、ノートを開いて今日の予定を確認する。夕方に一社往訪の予定あり。昨日作ったプレゼン資料は、このあと出勤してすぐに最終チェックをして、事前にメールで送付する。プレゼンの事前準備は軽めで大丈夫。それよりも、来週の営業会議の報告資料の仕上げに時間をかけた方が良い。往訪のあとは、プレゼンの振り返りと報告の準備で時間いっぱいになりそうだ。わたしは、簡単にメモを書いて今日の予定を仮置きしていく。

ノートの無地のページを広げる。わたしはバリスタの様子を眺める。今日の彼女は髪色に近い茶色の髪留めで髪を後ろに束ねている。前髪は内側に少し巻き込んで優しい印象を作っている。白のブラウスに薄い茶色の動きやすそうなチノパンを合わせて、足元は白のスニーカーを履いている。エプロンはこのカフェのユニフォームであるダークグレーのお揃いのもの。首元には丸い円形の黄色いペンダントを着けている。満月をあしらったものだろうか。わたしは無地のページに今日の日付を書き、それらを忘れないように簡単に彼女の線画を描いて彼女の表情と服装をメモしていく。コーヒーを半分ほど飲み終えたところで、紙カップの蓋を閉じ直して、ノートを閉じ、バッグにしまい移動の準備をする。わたしが席を立ち上がろうとすると、彼女はこちらを向き笑顔で「いってらっしゃいませ」と声をかけてくれる。わたしはそれに笑顔で応える。


夕方の取引相手のオフィスへの往訪を終えて、わたしはまたスターボックス・カフェにやってきた。夕方のカフェは学生や買い物客などの集団で店内は混雑していたものの、出入り口近くの二人掛けのスツール・ベンチのテーブルを確保できた。わたしは席にコートとストールを置き、コーヒーを注文し受け取ってくる。席に戻り、ノートを広げて今日の往訪を振り返る。反省点はいくつかあるものの、今日の顧客とは既に何度も顔を合わせており、それなりの関係性ができている。週明けに課題をフォローアップして、次回の往訪までに対策を講じれば大丈夫だろう。今日の話題のメモを読み直し、フォローの必要な課題をリストアップし、簡単に対策を書き出す。大きく揉めるような内容ではない。それよりも数回前の往訪から滞っていた議事が進展したことが喜ばしい。今日の話し合いを経て、わたしたちの関係性はより深まった。これを機に次の段階に話を進めていけるようになる。

ふと顔をあげると、見知らぬ女性が横に立っていた。少し考えて、毎朝顔を合わせているバリスタの髪留めを外した姿だと気づいた。少し茶色に染めた髪を肩上の長さで切り揃えて毛先を内向きに巻き込んだショートボブ。彼女のヘアスタイルは、清潔さと柔らかな雰囲気を感じさせた。「ご休憩ですか?」彼女は聞く。「私はいま仕事上がりなんです」わたしはうなずく。「これ、先程落としたばかりのコーヒーです。よろしかったら試飲にどうぞ」彼女はデミタスサイズの紙カップに笑顔の顔文字と「お疲れ様です」の文字を添えたコーヒーを手渡してくれた。わたしは「ありがとう」と「お疲れ様でした」の二言をかろうじて声に出す。「お仕事頑張ってください。お疲れ様でした」彼女は笑顔でそう言い、振り返って店外に退出する。わたしはカップを手に持ったまましばらく店の出入り口の人の流れを眺めていた。


定時で仕事を終えてわたしは帰宅した。服を着替えて作り置きしてある簡単な夕食を温めて食べる。片付けをして歯を磨き化粧を落とし入浴を済ませる。パジャマに着替えて髪をドライヤーで乾かす。わたしは神経質な性格なのだろう。まずは毎日の習慣をいつもの流れで終えたいと思う。それが済むとやっとその日の特有の出来事に思いを馳せることができるようになる。

わたしは、バッグからノートと万年筆を取り出し、ダイニングテーブルに移動し座る。ノートを広げて、仕事終わりのメモの後に起こった出来事を書き込んでいく。今夜は特に変わったことは起きていない。夕食で食べたもののメモが日によって異なるくらいで、大抵は同じような内容の繰り返しだ。

わたしは、一通り書き終える。一息ついてから、ノートのページを捲り、今朝の記録から読み直していく。何か気になることがあったら、更に追記したり下線を引いたりして注目できるようにしていく。わたしは、午後のスターボックス・カフェでの振り返りのメモを眺めて、万年筆のペンを止める。

わたしは、スターボックス・カフェの馴染みのバリスタに話しかけられた時に、なぜあんなに動揺したのだろう。わたしは、自分の心の中で呟いた「動揺した」という表現に眉をひそめる。わたしは、「動揺した」のだろうか。わたしは、あの時普段と異なる感情を感じたように思う。

わたしは、椅子から立ち上がり、寝室に移動し本棚に並べてある過去のノートを数冊取り出して、またダイニングテーブルに戻った。新しいノートから古いノートへ順番に手に取り、ペラペラとページを捲り、メモを俯瞰するように眺めていく。

ノートには仕事のこと日常生活のことなど、わたしの気になった物事の全てを時系列で記してある。文字だけではなく、記号や図形、線画などメモの形式もその時々で異なる。わたしは、バリスタの線画を見つける度に、そのページの内容を読み込み、その瞬間の記憶を再現する。

わたしは、いつ頃からあのバリスタの線画を描くようになったのだろうか。わたしは更に過去のノートを見返していく。わたしは沢山のバリスタの線画を見返す。わたしは思っていた以上にあのバリスタを描いていた。わたしは理由を深く認識せずに彼女の線画を描き続けていたようだ。あのバリスタの何がわたしを惹き付けるのだろうか。

わたしは、今年の初め頃のページのバリスタの線画を見て、ページを捲る手が止まる。わたしは、あのバリスタの名前をメモしていた。バリスタのネームプレートに書いてあった「Mana」という名前を記録していたのだ。「Mana」漢字なのか平仮名なのかは分からない。わたしは、その「Mana」という音を繰り返し声に出し、発音の際の唇と舌の感触を確かめた。



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