感想文:『耳をすませば』について
あなたは、自分自身を試したことがありますか?
自分自身に何が出来るのか、出来ないのか。
自分は何者かになれるのか、なれないのか。
そういう自分を切り詰めるような、一言で言えば「試練を課す」ということ。
わたしにはあります。
その試練の結果、わたしは何者にもなれず、わたしには何も出来ないことを知ったのでした。
こんな書き出しから始めたのは、久しぶりにアニメ映画『耳をすませば』を見たからです。
『耳をすませば』は、中学3年生の主人公・月島雫と天沢聖司の青春映画。
物語の主軸は、進路に揺れる雫と聖司の恋愛です。
ラストシーンの「雫、大好きだ」という聖司の最後のセリフに、観客は青春の甘酸っぱさを想起させられ、心を打たれるでしょう。
ドストレートな恋愛物語。
だけれども、このアニメは恋愛以外にも、様々な軸をもっています。
いくつかある物語の軸のなかで、わたしが今回取り上げたいのは「故郷」についてです。
故郷。
故郷とは、 自分の生まれ育った土地のこと。
わたしは、『耳をすませば』という物語は、主人公が、あるいは、登場人物たちが、自分の「故郷」を発見(または再発見)する物語なのだと思います。
このアニメの主題歌がオリビア・ニュートン=ジョンの歌う「Take Me Home, Country Roads」であることもまた、この物語が「故郷」であることを端的に表しているでしょう。
また物語のなかで、雫は「Take Me Home, Country Roads」の歌詞を友人に頼まれて和訳しています。
その和訳を友人に披露するときの雫のセリフがとても印象的です。
雫は「故郷が何か分からない」けれど、率直に今の自分の気持ちを書いてみた、と言うのでした。
友人たちは手渡された詩を朗読します。
雫の率直な気持ちは、まだ故郷へ向かう道の途上にある。
雫はまだ故郷に到着していない、ということ。
しかし、これは実は矛盾した表現です。
なぜなら、故郷とは、これから向かう場所ではなく、生まれ育った土地のことだからです。
本来なら、雫はすでに故郷にいる、にもかかわらず、雫はそれが分からずに、まだそこに到着していないと感じている。
つまり雫は、故郷の分からなさを見事に表現したわけです。
もちろんこの詩を実際に訳したのは、雫ではありません。
プロデューサーの鈴木敏夫の娘である鈴木麻実子であり、それに宮﨑駿が補作したと言われています。
そういう裏方の話は置いておきますが、とは言え、この詩が物語の根幹にあることは明らかです。
雫は「故郷」を今はまだ手に入れていない。
ならば、この物語の結末では、雫は「故郷」を手に入れているはずでしょう。
物語は、展開します。
聖司はバイオリン職人を目指し、海外へ留学を決意します。
聖司は、バイオリン職人という狭き門で生きることの困難さを理解してます。
さらに、その夢を目指すこと自体が、あらゆる意味で「自らを試すこと」であることも理解しています。
つまり、聖司は、狭き門をくぐり抜けるかどうか、あるいはその世界で生き残ることができるかどうか、自らを追い込むようにして、武者修行的に海外へ向かうのです。
その雄姿に触発された雫は、自らも小説を書くことを決意。
雫は「みずからが納得がいくような小説を書くこと」を自らに課します。
これが、この記事の冒頭で書いた「試練を課す」ということです。
一旦、本論を離れますが、わたし自身、このアニメを幼少から何度も見ており、これに影響を受け、これまでに2度、自らを試したことがあります。
ひとつは大学の卒業論文、ひとつは2017年ごろに書いた小説です。
わたしはどちらも、自分が納得のいくものを作ることができませんでした。
わたしには才能がない。
こう言うと悲しいことに聞こえますが、しかし、わたしにとっては、それを知ることができた貴重な機会だったと考えています。
本当は大学で研究者になりたかった、あるいは、小説家になりたかった。
でも、自分にそれを課し、論文を書き、小説を書くことを通じて、その世界では生き残れないことを自覚したのでした。
今では、一般的なオフィスワーカーとして、日々エクセルを操作し、パワーポイントで資料を作り、会議に参加し、業務を進めています。
この日常を生きていけるのは、過去に、本気で論文を書き、本気で小説を書くことを試みたからだと、(やや自己肯定的ですが)今は思っています。
一言で言ってしまえば「思い出」であり「記憶」です。
成功体験ではありません、成功していませんから。
これは、単に思い出であって、記憶でしかない。
そして、わたしはその記憶を「故郷」だと感じているのです。
自分が生まれた土地という意味の故郷ではなく、自分のこころの拠り所としての故郷。
土地ではなく、思い出あるいは記憶。
『耳をすませば』とは、故郷を手に入れる物語なのではないか。
つまり、言い換えれば、雫は故郷を手に入れたのではないかということです。
雫は、満足はいかなかったものの、何とか自らに課した試練を耐え抜き、小説を書きあげます。
雫は、小説の執筆を通じて、自らの至らなさを知るのでした。
この体験、この記憶こそ、雫にとっての「こころの故郷」だと言えるでしょう。
さて、このように書くと、まるで「記憶=思い出=故郷」が良いものであるように感じられるかもしれません。
しかしながら、記憶は時にひとを苦しめます。
軽い言葉で言えば黒歴史、あるいは、重い言葉で言えばトラウマ。
記憶は、ひとをパニックに陥れることすらあります。
『耳をすませば』では、故郷は振り返ることができる青春の思い出として描かれていますが、現実の記憶は必ずしもそうではありません。
しかも、あるときには良い思い出も、別のときには黒歴史に反転することすらあります、そして、逆も然りです。
記憶=思い出=故郷は、ひとを支える柱にもなれば、人を苦しめる錘にもなり得るのです。
『耳をすませば』は、雫や聖司にとって、これからの人生における「柱」となるべき青春時代を描いたものです。
しかし同時に、故郷はひとを苦しめることもある、ということを蛇足ながら、ひとこと言及しなければなりません。
別の言い方をすれば、故郷とは、ひとを支えもするし苦しめもする二面性がある、それはその時々で反転しうる、そういうダイナミズムがあるのです。
わたしは『耳をすませば』を見るたびに思い出します。
自らの故郷について、それは良いものでもあり、悪いものでもある。
思い出すたびにその複雑さを噛み締めています。
あなたには、故郷があるでしょうか。
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