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アゴタ・クリストフ『ふたりの証拠』

いてもたってもいられず、アゴタ・クリストフ『ふたりの証拠』を読む。『悪童日記』の続編である。

第二次世界大戦中におけるハンガリーらしき国のはずれで、厳しい祖母のもとに疎開してきた双子の少年たちがしぶとく生き延びるさまを描く『悪童日記』。主観をいっさい交えず、見たこと、聞いたこと、実行したことを、ありのままに記す。感情を示すことばは漠然としているので、物事や人間についての事実だけを忠実に描写するという「作文」の作法にのっとり、断章とまではいかないものの、60余りの掌編で描かれた日々の暮らしと思考を「日記」と訳したのは、的を射ているように思う。

簡素で単刀直入なことばが、賢くとも成長の途上にある少年たちの拙さをも滲ませる。固有名詞を排した抽象性が、かえって人間の翳と戦争の不条理さを強調し、この物語に違和感なく寄り添う。双子の少年たちは常に「ぼくら」と一人称複数の語り手となり、悪事をはたらくときも、「作文」における記述についても双子の一人ひとりが明確にされない。それが、かえって顔が見えない不気味さも感じる。

それに対し、続編の『ふたりの証拠』では、双子のうちの一人がリュカ(LUCAS)という名であることが明かされ、早い段階で、もう一人がクラウス(CLAUS)だと明かされる。そして物語はリュカの視点を三人称で語り、父親と関係を持って子どもを産み、リュカが母子ともに家に住まわせるヤスミーヌや、夫が処刑されて気が触れた図書館司書のクララ、男色でリュカを誠実に支える共産党幹部のペテールなど、名前や職業を持つ人々が存在感をしめす。前作よりも、血がかよっている。体温を感じる。

また、『悪童日記』が双子の少年たちの子ども時代を描いていたのに対し、『ふたりの証拠』では、リュカが15歳から20代半ばまでの青年期を描く。前作から訓練と工夫をこらし、したたかに生計を立てることはお手のものだったが、本作では第二次世界大戦後におけるソビエト共産党支配の息苦しさを背景に、複数の女性関係や、自分ではなく他人が成長するための支援、さらに人が生きるための知性のあり方や、老いていく者に対する視線など、7章に分かれた愛と苦悩の日々がゆるやかに流れていく。

しかし、前作では「ぼくら」という一人称複数で覆い隠されていた双子の一人ひとりの存在が、リュカとクラウスと名前が明らかになることで、個が明確となり、自立を通り越して孤独が浮かび上がってくる。ヤスミーヌやクララといったリュカが支える女たちがいる。ペテールや、書籍文具店を営むヴィクトールなどリュカを支える男たちもいる。それでも、人と人の「あわい」にあるもの、その関係性を「魂」と呼ぶならば、リュカの「魂」はいつでも彷徨っている。

原著フランス語をたしかめたわけではないが、著者アゴタ・クリストフの特徴なのだろう、台詞のほかは、ひと組の主語と述語(動詞)でつくる単文が多く、現在形である。リュカをはじめとする登場人物の動きは生々しく、簡素なだけに無駄なく伝わってくる。そしてリュカは自分の行為を後悔することは少ない。

しかし、リュカを取り巻く人々が語る内容と言葉は、常に過去の話。よいことがあったと述懐しても、悪いことをしたと悔やんでも、視線がいつも後ろ向きで、すでに失われた時ばかりを語っている。リュカが前向きに生きているとはいえないが、周りは決して明るくない。「生」に陽があたっていないのだ。

そのすれ違い。その寂しさが、私の胸をぎゅっと鷲掴みにする。そんな孤独が孤立へと移ろう決定的な「すれ違い」が最終章で起こる。感情を示すことばは漠然としていて、「作文」に向かないのかもしれないが、物語の寂寥たる景色に、声を失っている。三部作をしめくくる『第三の嘘』がとても気になるが、飛びつくような心持ちでもなく、じっと佇んでいる。

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