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アントワーヌ・コンパニョン『寝るまえ5分のモンテーニュ 「エセー」入門』

アントワーヌ・コンパニョン『寝るまえ5分のモンテーニュ 「エセー」入門』を読み終える。もちろん、昨晩に。

本書のもととなったのは、2012年7月2日から8月24日まで、月曜日から金曜日までの12:55〜13:00に、フランスで放送された「モンテーニュと過ごす夏」というラジオ番組。放送台本がそのまま書籍として刊行されると、フランスでは約1年で17万部も売れたという。

わが国で翻訳するにあたり、エセーの入門書にふさわしい題名にしたとある。「誠実さ」「他者」「羞恥と芸術」というように、無作為に並べられた全40章からなり、ほぼ4ページでまとめられた1章は、ラジオ放送と同じように、およそ5分で読める。これを3月初旬から、タイトルどおりに毎晩寝るまえに読んできた。日数が合わないのは、3月末のタイ出張には持参しなかったのと、寝る前の5分といえども睡魔に勝てず眠りに落ちてしまったからだ。

16世紀のフランスを思索したモンテーニュ『エセー』を読むことにずっと憧れていた。ただ、宮下志朗の新訳単行本では全7巻、原二郎訳の岩波文庫版でも全6巻もある。全107章をどこから読んでもよいとはいえ、積ん読の可能性は否めない。ならば、気軽に読める入門書から始めたい。寝る前の5分で1テーマ、全40章なら毎晩読んでも1か月ちょっと。文章を書くのも、読書するにも、勉強するにも、小さく分けて毎日続けるのがよいと信じている。

幾度かの間断はあったにせよ。はじめて触れるモンテーニュの思索と『エセー』の言葉はしみじみ興味深い。フランス文学者である著者は、『エセー』から断章のように引き、みずからの言葉で背景を語り、研究者としての解釈を添える。へえと唸ることも多いが、大半は削ぎ落とされた引用と解釈のために、もっと読み進めたい、『エセー』本体も読んでみたいと揺さぶられる。ただ、昼間の疲れと身を横たえる心地よさに意識は薄れ、顔の上にモンテーニュの語りを幾度落としたたことか。耳元でささやいてはくれないことを恨みつつ、その章の結びまで何とか目を走らせ、そのまま夢のなかへ駆け込む。

「38 賢明なる無知」において、著者はまず、モンテーニュの言葉を引く。

わたしは、運まかせに、とにかく手近の主題を取り上げる──どれでも同じだけ、有効なのだから。でも、それらを全部まるごと扱おうと、考えたりはしない。

(『エセー2』)

それについて著者は、「モンテーニュの思索は、いかなる偶然の観察、読書、出会いからでも出発しうる」と述べ、旅をする馬上で思索に耽るモンテーニュを想起する。ある考えを思い浮かべたり、またはその考えを捨てたり、思いが飛び交う。「だが、それでよいのだ」と評し、結局はすべてがお互いに関係しているのだからと言葉を継ぎ、さらなるモンテーニュの言葉を引く。

というのも、なにごとにつけ、わたしには全体などは見えはしないのだ。(中略)それぞれの事物が有する百の手足や顔のうちから、ひとつだけを手にして、ただなめたり、軽くさわったり、たまには、骨に届くまでぐっとつかんだりする。それも、できるだけ広くということではなくて、できるだけ深く衝いてみるのだ。それも大抵は、当てたことのない光によって、そうした部分や表情をとらえることが好きなのだ。

(『エセー2』)

モンテーニュも、著者のアントワーヌ・コンパニョンも、知りたがり、考えたがりだ。それは、「賢明なる無知、すなわち、さまざまな知と踏破したのちに、それらが生半可な知でしかないと悟った者の無知」を出発点とする。ソクラテスの無知にも通じるだろう。分からないから考える。知りたいから考える。哲学は「学ぶ」のではなく、「哲学する」ものだと語り、実践した池田晶子を思い出す。

本書は、モンテーニュ『エセー』の、ゆるやかに全体像をつかむといった入門書とはいえない。みずから考えることに火をつける啓発書にほかなならない。それはモンテーニュといっしょに思索の道を歩くことでもあり、ともに歩くことで聞こえてくる息遣いや足音、ちょっとした仕草など、彼の人となりを感じることでもある。憧れに一歩を踏み出すことができるか。さっそく手綱をたぐり寄せてみる。

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